矢部宏治『日本はなぜ、「戦争ができる国」になったのか』を通読する

旅行に出ていて、その間に読んだのでうまく表現できないが、推理小説を読んでいるような謎を追いかけての本だった。印象は強くてとても短いブログでは表現できない。
ぜひ、読んでほしいと思う。
前著にもおどろいたけれど、今回も期待は裏切らない。すでに日本人は知ってしまったんだね。

改めて、あつかいたいと思う。

新しい電子ブックの試み

すでにある本を電子本に置き換えたというだけでは意味がない。そこに何かが付け加わらないといけないのだということだ。
そんな試みを期待していた。
今回偶然というか、すでにお立ち読みでみていたような記憶もあるのだがはっきりしないが、BinBstoreから発売の『朗読 :裸でベランダ/うさぎと女たち』に出会って面白いと思ったので紹介してみる。

http://binb-store.com/index.php?main_page=product_info&products_id=16093
そうはいってもこの詩集は2013年8月にペーパーバック版で出版したものに朗読音声とTEXTを連動させた電子本であって、印刷本を電子本にしたことは間違いがないのであるが、朗読音声を加えたことが新しい。

実際に読んでみる?聞いてみる?とピアノありライブセッションあり、ライブの朗読ありと多彩に構成されていて飽きさせることがない。
そのことによって芸術性がアップしたのかというとそれは何とも言えないが、ひきつけることはたしかだろう。最近流行りの童話の読み聞かせだけではなく、ショートショートの朗読会なんかもやっているようなので、それはそれで新鮮に感じた。
(あっ、そういえば、み群杏子くんが朗読会をやっていたよな。電子ギターをもちこんでライブしていたっけ。http://homepage3.nifty.com/hoshimizuku/

こういったコンピュータをつかったメディアの試みは、むかし「マルチメディア」と呼んでいたころからの挑戦だったのだが、いつのころからか、紙の本をみならって本づくりをするようになっていった。たしかに紙の本は完成度も高く400年以上の歴史がある。それを真似てみるのも一つの方法であったかもしれない、しかし最初の志を失ってしまっては意味がないのではないだろうか。新しいジャンルをつくるという試み。結局、現在では電子本は紙の本の焼き直しになっていて出版ビジネスの二軍になってしまっている観がある。けっして下請けではないという旗はおろしてはほしくない。

むかしむかしマルチメディア作家になろうと夢を描いたものの、IT技術もないしIT知識もなく、まして主張すべき文学作品も生み出しえなくてモンモンとした日々を過ごしていたのを思い出す。
マルチメディアをあきらめて、せめて言語の世界での革新と考えたがそれも果たせず、なんとも気の抜けた文章を書いているのもなさけないが。
一方に文字を使うという言語の革新と、文字、音、音声、画像、動画を駆使する革新という二つの課題が電子本には課せられている。この二つ抜きではたんなる紙の本の二軍、映画やVTR、演劇の二軍なってしまう。

その意味でも今回の試みを評価したい。

松尾匡『この経済政策が民主主義を救う』


この経済政策が民主主義を救う: 安倍政権に勝てる対案

この経済政策が民主主義を救う: 安倍政権に勝てる対案


ともかく読んでみました。

この人、本当は安倍の支持者じゃないのと思うくらい懇切丁寧にアベノミクスを紹介します。でも、よく読むとやっぱり批判しているのですが、立ち位置がよくつかめません。
手っ取り早くアベノミクスを批判する知識を得たい方には不向きかもしれませんが、すでにアベノミクスは破たんした中でじっくり日本経済について考える方には参考になると思います。

しかしながら、反応すべきはおそらくここではなく、むしろp112から始まる「日銀の金庫の中の国債はこの世から消えたのと同じ」という節でしょう。無からおカネを生み出す財政政策の部分でしょう。
にわかには、信じがたい錬金術のようなものですが、ここがこれからの経済を考える勘どころなので、まだ何がなんだかわからない方は読んでみられるのがいいと思います。私の言葉で説明するには困難です。

ところで本書は勉強させてもらうところも多いのですが、突っ込みどころもあって面白い本でした。
たとえば、せっかく財政法第5条(日銀が直接国債を買うこと)を破る禁じ手を使おうというのなら、直接、低賃金の介護労働者、現在話題の保育士さんに直接支援する方法を探る禁じ手を考えたらいいと思うのに、ケインジアンらしくそこは政策で介護報酬を増やすなどの間接的な政策になるのには、不満がのこります。(いまだにサプライサイドからの経済政策になっています。すでに経済のキーは消費にうつっているというのに。)

結局、経営者に利益は吸い取られて、労働者賃金にはいかないのです。(つまりトリクルダウンなんておこらないのです)

ともかく面白いほんでした。
おっと、忘れていました。

タイトルは松尾匡『この経済政策が民主主義を救う』です。

糖質制限実施中その三

前回の森谷敏夫『結局、炭水化物をたべればやせる!』の続き。
炭水化物信仰は強くて、たとえば手近なものでいえば、毎回送ってもらっているメールマガジンの書評にもあった。

http://back.shohyoumaga.net/
[書評]のメルマガvol606
「おばちゃまの一人読書会〜中高年の本棚/大友舞子」という人の「炭水化物の恩義を忘れている人必読!」

この書評では炭水化物の恩義を忘れるなと言ってこのように始まる。

「でもね、考えてもごらんなさい。日本は昔から豊蘆原瑞穂の国と呼ばれてて、
弥生時代の昔から稲作が行われてきて、それで栄えた国なわけ。(一説による
と、縄文時代からもすでに稲作は行われてきたらしいですが)。稲作、つまり
ご飯、お米=糖質をたっぷり食べて命をつなぎ、働いて、子育てをしてこの国
で生きてきたわけですよ。」

稲作2000年から3000年の歴史があって、その間食いつないできたのは米=糖質といっている。人類の過去の歴史で言うなら、ホモ・サピエンスが日本列島にやってきたのが3万8千年から3万年前のことになり稲作中心以前の時代のほうがずっとながいわけで、その間は魚をとったり木の実を取ったりして食生活を行っていたわけで、糖質を取るというのはめったにないごちそうだった。この期間の方がながくて、人類は糖質代謝より脂質代謝つまり脂肪酸+ケトン体を中心とするエネルギー代謝が自然なことだったはずなのである。

米を主食とするようになってからも過酷に体を使う時代は、糖質はすべて燃焼してしまうから問題ではなかったが、体を使うことが少なくなった現代人にとっては多すぎる糖は危険なのである。

江部氏は書いている

「人類700万年の歴史のほとんどは現代人のようには日常的に大量の糖質をとる環境になかったということ。だからこそ、体内で血糖値を下げるホルモンが、インスリンただひとつしか備わっていないのです」

こちらは700万年という古人類を含めているが、そうでなくとも現生人類のDNAでは糖の取りすぎは危険なことはまちがいないだろう。

もちろん、稲作によって安定して食料を確保したという事実はまさにその通りで、けっしてそれを否定するものじゃない。その恩義は確かにあるのだけれど、だからと言って糖質をどんどん食べろというのはおかしいのではないだろうか。もちろんどんどん食べろとはいっていないのだけれども。

この書評でもそこは微妙に言いまわしていて次のようだ。
「アプローチは違っても、
炭水化物を評価しているこの本に賛同するわけです。この本を読んでよかった
のは、はっきり言って炭水化物の価値はイマイチわからないままでしたけども、
★やはりダイエットは常に心がけるべき習慣
★日常生活でだらだらしないで動くことの大切さ
がわかったことでした。」

炭水化物を評価するこの本に賛同しながらも「炭水化物の価値はイマイチわからにままでした」とはっきり言っている。

ところでここまで糖質制限を主張していうのもなんなのだが、糖か脂質かという二者択一ではないだろうと思う。あれかこれかではなく本当はあれもこれもなのだ。ただ糖質制限が主張するのは糖質を制限しろということだけである。いろいろいいことばかり書いてあるが、それが本当かどうかそれはまだわからない。
エビデンス(科学的根拠)のしっかりしている研究が示した以上のことではないということだろう。

結局、炭水化物を食べればしっかりやせる!

結局、炭水化物を食べればしっかりやせる!

ミシェル・ウエルベック『ある島の可能性』


小説の場合、その研究者でないかぎり主観的なものになっってしまうのは仕方がない。『服従』が話題になっているが、そのひとつ前のSF。
やはりフランスの本のエージェントたちが好みによって作った本という気がしないでもない。この手のものは日本流でいえば田中慎弥の『宰相A』と同じデストピア的な同工異曲だろう。もちろん、ネオヒューマンという新人類どでも言いたげなものだけれど、概して現在世界のパラダイムからの未来であって、このパラダイム自体が未来には変わっているという前提には立たないから新人類といってもものたりない。真に予言的でも革命的でもないのだ。
すなわちエンタテイメントの延長上にある。

として早々に読了。

――○――

文句ばかり言って、書評になっていないから紹介リンクはしない。
だって面白くないいんだもん。

糖質制限食実施中 その2

結局、炭水化物を食べればしっかりやせる!

結局、炭水化物を食べればしっかりやせる!

今回は、糖質制限食の真反対の『結局、炭水化物を食べればやせる!』という森谷敏夫の本の紹介、こちらも京都大学系で先回の江部康二と同じく1950年のうまれという奇しくも同じ年齢だ。おもしろいねぇ。

この本自体は運動をすすめるダイエットで、糖質オフに関係するのは第一章「糖質オフが危険なわけ」だけになってしまうが、そこになにが書かれているのかが関心事だ。

しかし、よく読んでみると、激論のような糖質制限批判ではなく、説得力にかける内容になっている。がっかり。

論点はムリやり探してみると5つになるだろうか。
A栄養学の常識に反する
B人間の安静時の代謝は糖質だ。
糖質制限で2〜3kgすぐにやせるのは、グリコーゲンから水が外れた分だけ。つまり「水の泡ダイエット」だと
D炭水化物をとらずにやせると太りやすくなる。
E糖質オフでは筋肉がやせてしまうだけ

A,Bはこの10年ないし5年でもいいが、栄養学のコペルニクス的転回とでもいう常識が真反対になっていることがまったく考慮されていない。かつて黒だった脂質が白になった。それも科学的エビデンスを踏まえての脂質評価に代わっていることが理解されていない。痩せたければ、脂質を取れへとかわっている。そして糖をとるなと。人間のエネルギーの基本代謝は脂質代謝なのだ。どうしてもブドウ糖を必要としているのは、赤血球と網膜などの特殊な細胞だけだ。あの脳でさえ脂質の代謝物であるケトン体がエネルギー源になるという。

D,Eは糖質制限をやめたときのリバウンドがくるということを前提にしているらしいが、糖質制限食はもう一つの固定観念であるカロリー制限というものがない。だからそんなにつらくない。カロリーはどんどんとっていいのだ。(むろん、食べ過ぎはいけないけどね)また、古い栄養学にこり固まっている人には、つねにバランスのいい食事とすぐにいう。しかし、よほど暇な人でない限りそんなことは不可能だ。忙しい現代人にあっては悠長に食事できない。(さて、それにもましてバランスのいい食事なんてそもそもあるのか?)必要なのは極端に偏食しないことだけだ。

しかしながら、糖の摂取を減らした方がいいというエビデンス(証拠)はある。糖制限食はそれを言っているだけ。

Cは本当かどうか知識がないので宿題としよう。
ただし、グリコーゲンは正常70kgの成人で肝臓に72g筋肉に245g細胞外液10g、合計327gと手じかな本にあるから2〜3キロにもならないとおもうが?

およそそこのようで説得力のある糖質制限批判にはなっていなかった。そしてまた「炭水化物」と「糖」という言葉が混乱していて、ほぼ同じ意味に使っているらしいことは気になる。問題になるのは糖であって炭水化物ではない。炭水化物には食物繊維も含まれるので概念的に違う。制限するのは糖であって炭水化物ではない。

この話題もう少し面白いものを見つけたので続く。

日本人はどこから来たのかという問いの意味するもの

日本人はどこから来たのか?

日本人はどこから来たのか?

海部陽介『日本人はどこから来たのか?』は現生人類の出アフリカからはじまって日本にいたる過程を証拠に基づいて、それもコンパクトにしめしてみせた。おそらく日本人起源論の最大公約数的なものになっているのだろう。それぞれについてはこれまで読んでいたこの種のほんから知識はあったが、新しい知見に就いてメモしておこう。

A P−40アフリカ起源の現生人類(つまりホモ・サピエンスのこと)の中にネアンデルタール人と共通するDNAがあるとして、その割合は1.5〜2.1%と計算されているという。ただし、これは現生人類でもアフリカを除くというので、出アフリカ後に混血したのだとわかる。またネアンデルタールだけでなく「各地の古代型人類と混血したらしいのだ」ともある。

B 日本列島にホモ・サピエンスが住み始めたのは3万8千〜3万年前後、以前とする。
そしてそのルートは三つ、対馬ルート、沖縄ルート、北海道ルートであり一番早いのは対馬ルートだという。ただし、当時は80メール海面が下がっていたとしても、大陸との間には海峡はあったので、海を渡ってきたというのが重要。
また、この人たちは世界に類例のない台形様石器を使っていた。(ヨーロッパにもアジアにもないめずらしいもの)また、住居の跡が環状ブロック群を示す円形キャンプなるものであったという。これも日本以外では知られていない。
もう一つは黒曜石(p−141)について神津島への往復航海の証拠であり、行ったり来たりの可能性を前提にした渡航であった。ということはこの航海術を身につけた集団ということで、沖縄ルートからの人々の関与しか考えられないと結論している。

C 1万6千年から1万5千年前に縄文土器が発生した。

D 縄文系と弥生系
「人類学ではこの図式を日本人の「二重構造」と呼んできた」しかし縄文と言っても弥生と言ってもひとつではなく多様であった。
「篠田は関東と北海道の縄文人ミトコンドリアのタイプの違いに注目し、縄文のルーツが1つではない可能性を示唆していた」
等々

まとめ
読了して思うのは、外からやってきたものの混合という概念だろうか。色々なものが人々が入ってきたが、日本列島で新しくなったもの、たとえば台形様石器のようなものが花開く可能性こそが日本なのだ。

そうだとすれば、これからも外部のものが入ってくるということ。人も物も観念もということではないか。それをかたくなに拒否する必要もないということを教えている。