宮沢賢治はなぜハンチング帽を被っていたのか

宮沢賢治はなぜハンチング帽を被っていたのか

画像のように、宮沢賢治は昭和6年ごろハンチング帽を被っていた。
日本名、鳥打帽というが、賢治の被っていたのはレーニン帽といって、ウラジミール・レーニンの被っていたことで知られるのでその名がついた。しかし、直接な関係はない。

ハンチング帽はイギリスの発祥であるが、乗馬や狩猟の時に、シルクハットでは運動に向いていないので考案されたという。実用性が高いのと安価に生産できるので庶民にも広まっていったといわれる。

賢治は昭和6年には、鈴木東蔵の東北砕石工場という石灰岩をくだいて石灰肥料を作る事業を手伝うため、嘱託社員となった。しかし、生半可な気持ちでサラリーマンになったのではなく、本気だった。

元々賢治の家は商人の出であって、当時は宮沢商会を営んでいた、れっきとした商人だったのだ。賢治は長男なのに家業を継ぐのがいやで弟に継がせることになったが、本当に商売が嫌いかというとどうもあやしい。商売より好きなものがあった言う方が正しいだろう。
(この間の事情は『宮沢賢治 サラリーマンの歌』に詳しい)

商売が嫌いだったとは思えないのだ。
それを示すのがこのハンチング帽だ。

日本では、探偵や刑事たちが愛用していたというより、なによりも商人たちがこよなく愛用していたから。

ハンチング帽は商人たちの象徴でもあったのだから。

宮沢賢治

宮沢賢治とは編集

宮沢賢治 サラリーマンの歌

宮沢賢治 サラリーマンの歌