伊井直行『会社員とは何者か?ー会社員小説をめぐって』中間報告

伊井直行『会社員とは何者か?ー会社員小説をめぐって』中間報告


 やっと連載が終わって、単行本として出版されたのを機会にもういちど読み返して、書評を書こうとしたが、やはり連載時の時と同じところで行き止まってしまった。それは庄野潤三の『プールサイド小景』をめぐって議論されている11章で、何かを書こうとあせればあせるほど、どうしようもなくなり、中断してしまった。それでも気をとりなおして、ともかく中間報告〉の形でここに試みてみたいと思う。
 伊井直行の述べるところはこうだ。(結論だけを述べるので、くわしくは本書にあたってほしい)
 会社を辞めさせられた主人公青木が、子供をつれて、自分の母校でもある学校のプールへ子供たちを遊ばせに来ている小景より始まる。金を使い込んで辞めさせられたのが原因だが、それを妻は女がいるんじゃないかと疑っているという設定ではじまる。この青木を例にとって「会社に勤める人間が魂をどこかに置き忘れて来た存在であることを象徴的に示している」と会社員とは何者かの文脈にそって導きだしている。そしてそれは「会社で人は生きていないのかというと、それは違う」とも述べる。死んだものなら怯えないからだという。この会社員の存在論ともいうべき議論はおそらく、本作品のつぎのような独白ともつかぬ記述より導きだしたものではないだろうか。それは辞めさせられた青木が妻を相手にウイスキーを飲みながら話す内容のことだ。
 会社のビルに郵便物をはこぶパイプがあって、それが透き通っている部分が見え、時折白い封筒が落下していくのが見えるという印象スケッチからはじまって、早朝だれもいないうちに出社して、誰もすわっていない椅子に、そこに座る人間を想像していると、自分のすわる椅子を発見し「何という哀れな椅子だと思って。しがない課長代理の哀れな椅子よと・・・・」と感慨を述べる。
 いつもビクビクして椅子に座っていると記したのちにこう長広舌を揮う。
 「会社へ入って来る時の顔を見てごらん。晴やかな、充足した顔をして入る人間は、それは幸福だ。その人間は祝福されていい。だが、大部分の者はそうではない。入口の戸を押し開けて室内に足を踏み込む時の、その表情だ。彼等は何に怯えているのだろう。特定の人間に対してだろうか。社長とか部長とか、そう云う上位の監督者に対して怯えているのか。それも、あるに違いない。だが、それだけではない。それらは、一つの要素にしか過ぎないのだ。その証拠に、当の部長や課長にしたところで、入口の戸を押し開けて入って来る瞬間、怯えていない者はない」と云わせている。
 そしてそれは「彼等が家庭に戻って妻子の間に身を置いた休息の時にも、なお彼等を縛っている」と云い添えて夢の中まで入ってくるという。
 そして「そいつなのだ」といわせている。この云いようが伊井さんのことばとつながっているのだが、「会社に勤める者が知る何ものかであることは間違いないだろう」とする「何ものか」である。
 「右のエピソードに会社員という存在の本質にまつわる何ものか‐時代における人間のあり方の重要な部分‐と感じられたからではないか」と記している。
 そうだ、存在のことなのだ。
 このことは私の中ではすでに解決済みのことである。とれはどうしてかというと、会社員は金で買われた存在だからだ。もう少し詳しく述べると、サラリーマンは給与をもらって働いてやっているというように思いたがっているが、本当は金で買われたのだ。つまり身も心も買われたということだ。それゆえに会社員になるということは(私のことばではサラリーマンになるということはと言い直しても同じ)ある種の挫折を経ているということになるのだ。本来、不本意であるが、断念して会社員になったという経緯をふくんでいる。自覚しているかどうかはわからないが、生活の為という理由、なにもやりたいことがなかった等々の理由があったにせよ、そこには金で身も心も買われた現実が支配しているからだろう。
 そのことはヒラであっても管理職であっても同じことで、そのことは庄野の記述によくあらわれている。雇用という働き方の形態こそがこの存在の支配をしている理由であって、これが単に労働力を金で売っているという意味に限定した労働者という概念とは違っている理由だ。サラリーマンは自分のことをそのような意味で社会運動上の労働者とは思っていない節が当初よりあった。それでもサラリーマンユニオンなどの結成をするがそれでも、労働運動とは一線を画していた。しかしそれでもなお、金で買われた存在であることは間違いがなかった。
 「そいつ」とはつまり「金で買われた」という意味だ。だからいつも怯えているし、家庭にかえっても縛られている。夢の中でも出てくるし、カフカのザムザの見た「気がかりな夢」と似ているのだ。
 反面、金で買われたとはいえ、自営業であれば、親の代を引き継ぐということでもない限り、20年30年と努力して築きあげていくしか得られないような職にある日突然つくことができる。腕を振るってほしいと言われチャンスが目の前に開けるということがある。そんな職が20世紀初頭からあらわれはじめた。サラリーマンという生き方、働き方のはじまりであった。
 そのように解釈してしまえば、伊井さんが本章の末尾に蛇足ですがと付け加えた、主人公の想像はありえないことになる。なぜなら青木という男は、独白でも述べているように自覚的であり分析的であり、しっかりと自分の位置を知っている。おそらく10日後にはぶらぶらしているわけにもいかず、スーツを着て家を出たなら、新たな職をもとめて就活をするか、それとも自分でなにか自営を始めるだろう。お定まりのように馘になることで、通過儀礼のように区切りをつけて先へ進んでいくだろう。もちろんこの作品にあらわれた文字上の想定のことなのだが、鬱ならまた別の症状だろう。
 「そのそいつ」を書き出されたことによって、これは伊井さんの会社員小説であるとともに私の云うサラリーマン文学であるということもできる。
 では何故、ヘジテイトするのだろうか。
 それは「そいつ」というのが本当にサラリーマンだけのことだろうかという一抹の不安であり、これはサラリーマンに限らず、近代人一般に共通する不安でもあるのではなきかという危惧である。
 伊井さんは柄谷行人の「夢の世界‐島尾敏雄庄野潤三」を援用して、その中で述べられるらしい「一切の意味づけを剥奪された存在そのもの(「それ」es)が露呈しているのだ」という見解をふまえて「一切の意味づけが不可能な存在がそこにあるから不気味なのだ」とした。
 本当かなあ。
 「私は小説のさいごの「不気味な場景」が、会社員という存在の本質に向けて書かれた(と読むことが可能な)この小説の「作品全部と呼応して」生まれたものと考えたい」とした。
 不気味な末尾とは、「男の頭が水面に一つ出ている」と記され、おそらく読者は自殺を想起するが、これは青木ではなく、練習後の男のコーチがプールの底のゴミを足でさぐっている姿なのだということが明らかにされる。伊井さんは蛇足というのは、そのコーチの足が水底に冷たくなった死体を摘んでしまうとおうものだった。
 そうだ、そうでないと読者がうかつにも勘違いしたような小説としての落ち着きがなくなってしまう。オチがなければおさまりがつかない。その魅力をすてきれないでいる。しかし現実的にはなにも起こらないのではないだろうか。伊井直行さんが『スキーに行こう』であらわしたようになにも起こらない。『ノルウェイの森』のようにちょっと素敵な青春も、あったらいいなと空想したくなる恋愛も気がおかしくなって入院しているような恋人が登場するといような現実もないのではないだろうか。
 そこでこの小説をめったにいないだろう宮仕えへの経験のない自由人に読ませてみてほしい。バッかじゃないのと言ってもらえれば、これはまちがいなくサラリーマンのことについて書いたものだと結論しよう。