夢を作品化に使った短い歴史第一回夏目漱石『夢十夜』

夢を作品化に使った短い歴史


まえがき
 日本近代文学夢小史なるものを構想していたが、あまりに風呂敷を広げすぎて書けるはずもないとあきらめ、夢をそのまま作品に使った小さな歴史なら数回で書けるかもしれないと思い思考してみた。あくまで自分の書く理論として知りたいので、全体的に考察しているわけではない。あくまで一つの結論を得ることを目標にしている。
 扱うのはこれまでの構想で考えていた作品、せいぜい7〜8枚ぐらいで書きあらわすことをめざす。問題はあくまで夢を作品に使うという方法のこれまでとこれからということ。


第一回夏目漱石夢十夜


 夢のそものを文学作品として使えると考えて、作品化したものは数多くある。それを日本近代文学に限ってみるなら、その一番はやはり夏目漱石の『夢十夜』だろうか。夢のような話としての幻想小説もすでに対応するが、夢そのものを描こうとしたものではないので、あつかわない。
 夢そのものの特徴として、つじつまが合わない、突然に終わる、などなどいくつかの特徴をもっているが、読めばすぐにそれが夢だとわかる。夢をみている本人が、これは夢だとわかっていることもあれば、全く没入して分からない時もある。しかし覚醒すれば、ああこれは夢だったのだなと本人には分かるという性質のものだ。そして、夢は〈見なければ〉夢ではないので、夢見てはじめて夢だとして考えられる。他人の夢を引っ張りだしてきて夢みたようによそおうことはできない。言語化された夢は夢そのものではない。
 夏目漱石は、本当にこのような夢をみたのだろうということは容易にわかる。夢を書けばこんな風になるだろうと作ったものではないだろう。
 たとえば第一夜
「真白な頬の底に温かい血の色がほどよく差して、唇の色は無論赤い。到底死にそうには見えない。然し女は静かな声で、もう死にますと判然云った。自分も確に是は死ぬなと思った。そこでさうかね、もう死ぬのかね、と上から覗き込む様にして聞いて見た。」
 「到底死ぬようには見えない」と打ち消しておきながら「是は死ぬなと思った」と逆の言説がすぐにでてくる。これなどなぜかというよりも夢だからだ。眼前の事情だけでなくて、裏の事情を知っているというのが夢の特徴のひとつである。わざわざこんなことを述べなくても、すでに冒頭に「こんな夢を見た」で始まるわけだから、夢だと思ってまちがいがないのだけれど、おそらく本当に夢を見たのだと思える。その夢を作品としてそのまま使ったということには、やはりこの夢が幾夜通り過ぎていく何でもない夢ではなく、特に心にひっかかったのだろう。それはある種因縁というのか予言通りになったという感慨であり、それを作品としては「百年はもうきてゐたんだな」ということばで締めている。
 その夢そのものは、女が死ぬと言って本当に死んでしまって、お墓のそばで百年待っていてくれれば、又逢いにくると言い残していたので、腕組みして待っていたが、これは女に欺かれたんじゃないかと疑ったころ、真白な百合が鼻の先で匂った。そこへほたりと露が落ちたので、その反動でふらふらと動き花弁が自分の口元に触った。接吻したようなかっこうになり、ああもう百年がきていたたんだとそのとき気がついたという夢だった。
 一瞬にしてこの百年のことが了解されたというのがこの夢の本質だけれども、スタートから死ぬとも思えないのに死んでしまうという夢もここに至るための切り出しだったのだが、作品化するためにひきのばして「百年はもう来てゐたんだな」というオチをつけて作品化したものである。
 夢そのものは、いつもいつもおあつらえむきにオチをつけてくれるものとは限らないで、中途半端に終わってしまったり、突然覚醒してしまって、ああ夢だったんだなという思いで終わることが多い。だから、夢そのものを記述しようとすると、精神病理学上の夢の採取になったり、夢判断という解釈の材料にされたりするのであるが、そんな解釈はべつにして、文学作品へとなんとか昇華させることができないかと考えていると、そのような夢をみるものだ。それをどう記述するかにこの作品達の方法はあったのであり、夢物語ではなく、夢ののものを作品化するようになったのは近代文学に入ってからではないだろうか。文学史に関しては詳しくはないのでひょっとしたらすでに在るかもしれないのだが、それには触れずに、この漱石の『夢十夜』を嚆矢としておこう。
 「こんな夢を見た」と説明のあるものは「第一夜」「第二夜」「第三夜」「第五夜」の四つである。あとはこのクレジットは入らない。特に第三夜は近年では過去の贖罪を問うものとして研究が盛んになってきているというが、それは解釈の問題なのでここではふれないが、あまりたいした問題ではない。それよりなぜ作品化に夢を使ったのか、ではなくて夢を使うことによっていかに現実を切り開いてみたのかという現実意識の新しさというのが方法上のもんだいである。
 第一夜は先に述べたように、因縁または予言の的中である。
 第二夜は切っ先の頓悟とでもいう了解の覚悟
 第三夜は因縁、罪業
 第四夜は不思議な爺さん譚
 第五夜は自分の敵譚(あまのじゃく)
 第六夜は現実を彫り出すことができない種明かし
 第七夜は軽はずみな行為の後悔がスローモーションのように引き延ばされる。
 第八夜は庄太郎譚(床屋の顛末)
 第九夜は夢の中で聞いた話
 第十夜は庄太郎の後日譚。パナマ帽と女
 一読してわかるように、第一夜から第三夜までは本当の夢そのものを使っている。第四夜以降は夢を一部つかってはいるが、物語に構成されている。第四夜のように解釈困難なものある。
 しかし、すべてが漱石の作家的力量によってそれなりの形をつくっていることがわかるだろう。
 夢そのものを使った可能性という問題にするなら、やはり第二夜ということになるだろうか。了解困難な息詰まる瞬間であり死ぬか生きるかの必死の思考だが、なにも観念がでてこないときは出てこない。それはなぜあのときいい考えが思いつかなかったのだろうという経験のあるひとにとってきわめてリアルな夢である。これが一番可能性がある。