円城塔『道化師の蝶』

日付をみるとほぼ一ヶ月前に書いたことになる。うっかり忘れていた。今読み返してみると、なんだかテニオハがおかしい。でもスラーッと読み飛ばさないためにもそのままとした。以下


円城塔『道化師の蝶』

 「群像」に掲載された作品を読んだ。芥川賞をもらったこの作品の単行本は読んでいないが、同じだろうか。
 総じて石原慎太郎が嫌いだと言ったのはわかるような気がする。しかし、私としてはやはりどちらかというと好きなタイプで、三浦俊彦ばりのドタバタでもないし、憤怒は感じないが、やけにニヒリズムは感じられる。しかし、それが現実を扱っているという前提ではあたりまえのことで、こうならざるを得ないだろう。
 本当か嘘か、この作家も作品にあるように、街中へでて喫茶店をはしごして、二時間ずつ書いているというので、(いやツイッターを読んでそう感じただけなのだが)それには共感している。街中で書くというのは、やはりル・クレジオの『調書』以来気になっているので、その心性としてはやはりこういう文章になるだろうなということを納得した。語っている内容のそのものに意味があるわけじゃないので、いわばラップのように楽しめばいいということだ。つまりこういうテイストということ。そのテイストは周囲に気を使いながら書くという空間に入っていく、微妙な不安というべき落ち着きのない文体と評すればいいだろうか。完全な安定でも不安でもないという微細なゆれのようなものだろうか。それが出てくるというのはきわめて現在的である。我々の生活に直結しているといえるだろう。
 先日TVメディアで自作品の絵解きをしてくれていたが、それは関心をもつ導入になり得ても、結構理屈っぽいので誰もが手にとってくれるようにはならないだろう。入れ子構造的な構造分析は自分でやってしまってはおもしろくない。他人にやらせて静かに笑っているという姿勢でないと大家にはなれない。でも嫌いじゃないよ。自分からしゃしゃり出て語ってしまうようなところがおもしろい。饒舌といえば饒舌。よけいなことまで言ってしまう〈いちびり〉といえばそのとおりで、大阪へきてよかったねと言いたい。大阪ではよくうけるんだよ。そういうのって。