なぜカフカが重要なのか

なぜカフカが重要なのか



 ずっとカフカだった。若い頃から三十年以上になる。さすがに若い頃とは意味合いが違ってきたが、今もずっとカフカだ。
 かつて、吉本隆明がいい作品とはどういうものかということに答えて、百人が百人まわりの人々がいい作品だというのは凡庸な作品で、周りの人々がこの作品を評価できるのは数人だろうと思う作品は優れた作品だと言った。そして非常に優れた作品というのは、この作品の良さは私にしかわからない、またはこれは私のために書いてくれた作品だと思わせる作品はきわめて優れた作品だという趣旨の話をしていた。
 その例に倣って言うならカフカこそ優れた作品にあたいする。カフカの作品は各自が自分しかこの作品のよさは理解し得ないと思い、各人が自分のために書いてくれたのではなかと思えるカフカ像を持っているからだ。その思いはそれぞれであっていいが、そのことが言えるというのがカフカの作品が優れたものである事を証明していると思えるのだ。
 私にとってそれはサラリーマンとして理解された。
 若いころは初期のカフカ評論にあったように、実存だの現代の不安というように理解していたと思う。ちょっと違うなと思いつつも世の評論に従うように理解していたと思う。短編が好きで箴言集などを好んで読んでいた。それが学生からサラリーマンになって、十年ほどが過ぎてはじめて、これはサラリーマンのことを描いている文学ではないかと、ふと気づいた。サラリーマンが書いた文学ということではなく、サラリーマンそのものの存在をあつかっていると。
 そうなるとたまらず避けていた長編を読み始め、またそれがおもしろくて仕方がなかった。カフカのサラリーマン文学についてはすでに本にしているので詳しくはふれないが、それはますます確信となって根付いている。すでに私の中ではカフカはこのことと切り離して考えられなくなってしまった。
 そのことを少しだけ触れてみると、世の大方の方がそうだろうと信じている『訴訟』(初期は『審判』と訳されていた)は審判を受けるのがヨーゼフ・Kないし自分であってもいいという不条理な状況のことではなく、この書は自分が自分によって訴訟されるという妄想というか、空想を飛ばしてみたらどうなったかという結果なのだ。つまり逮捕される序章と犬のように殺され恥だけが残った終章よりなっているのでその中間はあくまで想像力で補ったものだ。
 私にとってはこのように読めた。
 そしてなぜこのことが重要なのかということをこのあともう少し述べると次のようになる。
 カフカの生きた時代はサラリーマンと呼べる就労者はまだ少なかった。(ここではサラリーマンを給与生活者というほどの意味合いで使っている。また定義もあいまいにして進めている)だが現在ではほとんどの就労者は圧倒的にサラリーマンが多いといえる状況であろう。あまりに簡単に言ってしまってはいけないのであるが、自営業とサラリーマンではやはりその存在において違っているということが前提にされないと理解できないかもしれないが、例えばサラリーマンとは自ら自立して税金を払う市民ではないのだ。もちろん源泉徴収によって税を払っているが、自らの稼ぎによって税を払っているのではない。もちろんサラリーマンにだってプライドはあるから、サラリーは労働の対価だというかもしれない。しかし、よく考えてみて欲しい労働の対価なら請負仕事になぜならないんだ。むしろ逆に自らの稼ぎに税がついてきているというほうが正しいのではないか。税は自分が払っているのではなく、会社が支払ってくれている。形式上では逆であるけれども、本当はそういうことだ。それはサラリーマンという存在がやはり金で買われた存在だということによっている。(急に金で買われた存在と言ってしまうとギョとするかもしれないが、よくよく考えてみれば奴隷と大差はないのだ。自嘲気味によく社畜だというように。ただし近代だから人身売買は禁止されているので本当の意味で奴隷ではないし、嫌なら会社辞めればいいだけの話なのだが)それゆえに自立して自分で決済することができる自由人ではなく、常に会社の意向や上司の意向を気にしていきる存在だということだ。このことを抜きにしてサラリーマンを考えることはできない。
 カフカはそのことを十分熟知していた。そのカフカが作品を成したときその意識は決してそのことと無縁ではなかったのだ。私はカフカの文学をサラリーマンとしての視点のみで理解しようなどと言っているわけではない。またそんなことは出来るはずもないのであるが、世の人々がサラリーマンなんてと思うほど、サラリーマンとしての存在は無視できるものはではない。何となく分かったようで分からないサラリーマンという存在は近代を解くひとつの鍵であると思っている。そのことをいち早く二十世紀初頭に描ききっているのがカフカだと理解している。