リディア・デイヴィス『ほとんど記憶のない女』

リディア・デイヴィス『ほとんど記憶のない女』


 女友達より読んでみないかと紹介された一冊を手に取ってみた。いつもはそれとはすぐに手をださないのだが、どう間違ったのか手を出してしまった。読み進むうちに、これは新手の手法だと感づいた。短編小説とあるが、断片が多くて51編が収められている。さすがにブランショの翻訳者というだけのことはあると感心した。
 モーリス・ブランショは後年すでに文学は断片・断章でしかないと語っている。昔のように長編を編み上げることができないのだというふうに私は理解していた。断片・断章と言ってもほんとうにバラバラの断片ではなく、そこにはやはり通低するものがある。部分、部分が見えているが、空白の部分はあるけれどもそれを補って読むとつながっているというものだ。ストーリーのことではない。ひとつながりの意識の流れの中で明滅する先端を切り取ったかのような断片なのだ。すごいなぁと感心した。「アメリカ文学界の静かな巨人」と言われるのも故なきことではないと感心しながらもネットで調べてみると元ポール・オースター妻であることを知り、そうだ,たしかどこかで名前を訊いたことがあると思い出した。P・オースターの本の「あとがき」などで見ていたのだろう。そして読みすすむ。「サン・マルタン」に読み進み、ここで私達は住み込みの管理人として暮らしたという記述に出会った。まちがいがない、P・オースターにも同じ題材をあつかった作品があった。どこで読んだのか思い出せなかったが、たしかに読んでいる。
 それからが大変だった。気になりだすと、どうしても手がつけられず、本棚を探し回り、書庫にしている倉庫の中を跋渉した。しかし、P・オースターの本は文庫本『幽霊たち』しか見つけることが出来なかった。でもそういう着想が頭にこびりつくと、すべてがそのように見えてきて、独立した作品であると思っているのに関連づけてしまう。「面白いこと」もそうだし「理解の努力」もそうなるだろうと想像してしまう。
 しかしながら、この本はそれだけではなくて、かなりいろいろな手法を実験しているのも事実であって、そのことは各編にみられる。たとえば「他の一名」や「家族」などでは、カフカの「隣人」を思いおこさせる。いや、まてよ。「隣人」はだまし絵風だから、そうではないかもしれない。それならこのテキストはいったいなんだろう。そう考え出すと、こちらも気になって、手元においているカフカ関連本を探しはじめた。池内紀若林恵カフカ事典』をめくってみた。するとどうも「隣人」というよりは「よくある出来事」に近いのではないか。パロディーではないが何らかの発想のつながりがあるだろうと思ってしまう。
 で、そんなことはどうでもよくて、ここで見つけたのだ。カフカ本に隠れていたP・オースター『トゥルー・ストーリーズ』だ。冒頭「赤いノートブック」The Red Notebookにこうある。
 「翌1973年、私は南フランスの山中にある屋敷の管理人をやらないかと誘われた」そして「Lも私も執筆に励み、二人ともその屋敷にいるあいだ、思ってもいなかったほど仕事がはかどった」
 Lだ。Lydiaのことだろう。
 そしてやっと訳者あとがきにまでたどりついた。
 そして、そして喜んだのも束の間足を掬われた。
 すでにこのエピソードは書名もふくめて解説されているではないか。
 世の中とはそういうものだ。
 お前の考えつくようなことはすでに誰もが知っていると言わんがばかりの体裁になってしまった。打ちひしがれているところへ、件の女友達から、そんなに感心したのなら、そのことを書いてみたらどうなのと言われた。 
 そして書いたのがこれだ。