古井由吉の作品に現れたサラリーマン像について

古井由吉の作品に現れたサラリーマン像について



 古井由吉の作品を通過した後で、何か古井由吉論なるものを書けるはずもなく、ただ望洋として、焦点化することはむつかしい。
 自分の側に引き寄せて「私は古井由吉をこのように読んだ」ということだとしても、古井由吉の本丸である生死の問題にも、エロスにもすこしの関わりもなくていいはずがない。城に入ろうとして、堀端を回ってみただけということになりかねない。しかし、生死の問題は、一種形而上学であるから、どのようにでも言える世界であって、そこへ手をつけるには、あくまでこちらの考えを持参して接近しなければならない。その考えがないと、その形而上学を受け入れるのか、受け入れないのかの二者択一になってしまう。二者択一になるとほとんどは受け入れてしまうので、それでは批評ではなくファンレターだろう。
 この危険を脱するためにも、微妙に生死の問題は避けて通ることだろう。
 それが成功するならば、何らかのことが語れるだろうと思うのだが、その道はおぼつかない。ではどうするのか。
 それは限りなく像に寄り添ってみることではないだろうか。たとえ、評論には似つかわしくない言説が紛れ込んだとしてもそれはそれとして現実の問題として扱うということ。その作品のコンセプトではないが、つい表現にあらわれてしまった像によりそってみること、これではないだろうか。
 その一つが、サラリーマン論の延長上で読むなら、作品中に現れたサラリーマンを扱ってみようと言うことだ。
 そこで、ここでは古井が自選として選んだ講談社文芸文庫『木犀の日』所収の作品群を使ってみたい。そこには1968年『白猫』に発表された「先導獣の話」からはじまり『群像』に1994年に発表された「背中ばかりが暮れ残る」までの作品群にあたる。
 日本経済史的には、最初の作品が、戦後経済の復興からようやく立ち直った経済が、高度成長をもとめて、1960年頃よりはじまり、ようやくその成果が見え始めた1968年頃にあたる。そしてその後1972年と79年の二度のオイルショックにもめげず、再度経済の高度化を押し進めようとした、いわゆるバブル経済へと突入していくそのまっただ中を経て、誰の目にも危ないと感じはじめた80年代、90年代前半へと書きすすめられた。そして1997年の金融危機バブル経済の崩壊とされるが、その直前の1994年の作品で終わっている。
 古井由吉の個人史的には31歳から57歳にあたっている。この間の膨大な作品群より選び出すのは至難の技なので、著者がみずから選んだ作品より参照させてもらうことにした。以下はその記録である。もちろん著者は主題としてサラリーマンを扱っているわけではないしが、関係する記述を抜き出して検討してみようということである。
?「先導獣の話」
 かつて学芸書林版『現代文学の発見』別巻「孤独のたたかい」の中に所収されていた時に読んだ印象は忘れられないものだった。おそらく大学に入学した頃だったから、1970年頃読んでいると思う。その鮮やかな印象は、深く刻みつけられた。しかし、『杳子』などの芥川賞作品は友人からすすめられて読んだが、それほど印象はよくなかった。そして数10年読むことはなく、それが「山躁賦」に出会って、また復活したのだった。
 学生時代に読んだ印象ではそうとは気づかなかったが、30年後に読んだときには、これはまぎれもなくサラリーマンの話だと確信した。一般的な文学論では、「生の深層」を描写したということになるのだろうが、内容的にも5年間の地方暮らしから都市に戻ってきて、毎朝の出勤ラッシュにおどろくサラリーマンの姿であったから、間違いがない。そこでの、集団内での孤独という使い古された観念ではなく「都会にもどって来て、私にはまわりの人間が無邪気なほど有能に見えたのである」というのがそれをものがたっている。たんなる孤独ではない。
 そうであるとともに、この先導獣というのが、冒頭のあざやかなシーンがあるにもかかわらず、狼等の獲物をねらう集団のリーダーとばかり誤解しており、それとは逆のねらわれるおとなしい獣集団の中の異変を敏感に感じとって走り出す先導獣であるということも知った。そうだ、そうでなければ話が通じないじゃないか。
 主人公は「甲羅を経た大人(ルビ点)しい獣にあきたらず、遊びにあきた幼い獣を思い描き」「また無邪気な媚をふくんだ、それでいてどこか物狂わしい小児の目を思い浮かべていた」とのべる。
 先導獣のイメージが空疎なものを埋めるようにさまざまに浮かびあがってくる。その中であざやかに描かれたシーン。

 「ところでその頃、私は雑踏の中でしばしば怪しからぬ思いに耽ったものだった。この静かな群衆の中に、今すぐにパニックを惹き起こすことができるだろうか、という思いだった。パニックとは、外側に原因らしい原因もなく、ほとんど内在的なものだけから起らなくてはならない。たとえば誰かが、見るからに善良そうな誰かが、真に迫った驚愕の表情でいきなり振り返り、流れを懸命にかき分けて走り出したとしたら、そしてまわりの人間たちの中でこの驚愕が感情的なものの境い目を一気に飛び越して、胸をびりびりとふるわすようなあのむしろ物理的な共振の状態に入ったとしたら、おそらく、十人ほどの人間が思わず十歩ほど引きずられて走り出すことだろう。そして十人もの人間が走り出せば、その中には、生活体験の重みを腹の脂肪の厚みともどもありありと感じさせる《大人しい》人間が一人はいるはずである。ここが、急傾斜にかかるかどうかの境い目なのだ。なぜといって、われわれは行きずりの人間たちの間からさえ《大人しい》人間たちを見つけ出して、そういう人間たちをいわば背景人物として、自分の現実感覚の安定を無意識のうちに絶えずはかっているのだ。」

 そして、その証拠にと続ける。

 「その証拠に、われわれが自分の現実感覚にひどく倦むと、われわれの身のまわりから《大人しい》人間の姿がぱたりと消えてしまって、いい年をして物狂わしい眼をした顔ばかりが目につくではないか。ところが、今ここで《大人しい》人間がものに怯えて走り出したとする。すると、このような人間には、原始的な恐怖がほかの人間たちの場合よりも露わにでないとはかぎらない。《大人しい》人間が目をむき出して走りだした。」

 高度経済成長下で「物狂わしい」間での目をして働くサラリーマンというのが、《大人しい》人であれ、いやその人の方が、このように何かに怯えたかのように走り出すと十人以上がそれにつきそい、そして集団となって駆けだしていった姿が、あざやかなイメージで描かれている。会社の状況もおそらくそのようだったのだろう。
 他人よりひとつでも多くの注文を取って、営業成績をあげたい、歩留まり(原料の使用量に対する製品の量の比率)をすこしでもあげたいと懸命になって働いた工場労働者、その姿をほうふつとさせる。
 それから、古井はさまざまな先導獣のイメージを追いかけ末尾で、学生デモに巻き込まれて、昏倒し、あることか、デモの先導者ではないかと警察に疑いをもたれるという話をそえている。いやそうであったかもしれない感慨を口にするが、案外本当だったのかもしれない。
 狂おしさから距離をとり、もうすこしましな頭脳なら、社会学的考察でもって解明していただろうと取れえていたはずの人が得てして、先導獣になっていたということはありうることだから。
 はじめて読んだ学生時代には、全く気づかなかったが、自らがサラリーマンを体験してなるほどと思えるシーンはここからはじまっている。
?「陽気な夜まわり」1982年4月『群像』

 「われわれは朽ちかけた大屋根の下で大勢ひしめいて暮らしているようなものだ。あるいは火薬を敷きつめた床の上で寝起きしている」
 すでになつかしい危機の意識が見え隠れしはじめた。そして眠れないという不安が立ちのぼりはじめる。
 「どうも世間全体として、何か間違っている、どこかがまずい、と私はいよいよお節介がましい気持ちになって腕組みをした」
 友人が旧い校舎の夜警のアルバイトをする。何かを妄想しはじめるのではないかと思っていると案の状妄想が起こった。巡回にでて、用務員室への帰り道、ある教室の戸をいきなりあけてみた。
 「中にいたか」
 「いた、俺が」
という妄想。
 こちらもただ眺めているだけの顔だったという。「ゆうの字」(幽霊)ではないらしいという。いわゆるドッペルゲンガーなのだが、まだ落ち着いて対応していた。
 正体不明の不安がすでにやってきつつあった。
?「夜はいま」1984年11月『譚』
 企業戦士、つまりサラリーマンのこと。その戦士が「抑制を切らして」精神病院に入院した話。
 その切れかたはこう描写されている。

 「会議中にいきなり立ちあがって叫び出した男は、ここ十年だけでも何人が見えている。一世一代の狂乱のはずなのに、叫ぶことはどれも、平生なら本人が笑って払いそうな、陳賦なことばかりだ。それでも一瞬の形相と眼光は、居合わせた者を蒼ざめさせるに足る。避けに避けてきた鉄槌に、ついに面前に立ちはだかったような、悔いの心さえおしひらかれる。しかし叫び出した時には、すでに熱狂は落ちて、目はどんよりと濁り、取りとめもなく揺らいでいる。そこではじめて、狂ったなと得心する。狂えなかったので、狂ってしまったが、とそんなことを私も思ったものだ。たいていあとが芳ばしくない。」

 抑制の切れ方はほとんどおなじようなものだろう。あまりにまじめなだけに緊張型の発作をおこしたようなものだ。主人公は一週間で退院する妄想をいだくが、それはありえないだろう。
 この発作があらわれる前に中高年のサラリーマン同士が退職奨励金の成り行きについて語り合うシーンが出てくる。これが前半の話のイメージとつながっているのだとわかる。
 そこにサラリーマンがみごとに描かれている。
 「俺たちは十回も堕胎させられて、嫁がされた女みたいなものだ、と誰かがつぶやいた。そう、今では腰ががたがた、と誰かが受けた」
 バブル経済のまっただ中のことであった。
 ここに現れたサラリーマン像の秀逸さは、サラリーマンという存在が「金で買われた」ということにある。ある意味、籠の鳥であって買った以上どう使おうと勝手という世界をあわせもっていることだ。もちろん近代社会では人は人を所有することはできないので、奴隷ということではいが、金で買われたということは実存的には言えるのである。
 エマニュエル・レヴィナスは『貨幣の哲学』のなかで次に様に言っている。
「人間も商品となり、賃金によってーマルクスが言ったのもやはりこのことで、つまり賃金は単なるささやかな報酬ではまったくないのですー人間は買い取られる(・・・・・・)のです。」
ここでマルクスが言っているといっているのは、おそらく『経済学・哲学草稿』中の「疎外された労働」に見える次ぎの様な言説によると思われる。
「労働者が労働者として実在するかぎりでのことだ。資本の存在が彼の存在であり、かれの生命であって、資本はかれの生命の内容を自分の都合で決定する。」
マルクスレヴィナスではコンセプトは違っているが、やはり人間はマルクスでは商品化として、レヴィナスでは「貨幣が機能している全体性のうち」では人間も、支払いする者、貯蓄する者、受け入れる者、与える者であるだけではなく買われる(・・・・)者であると言っている。しかし、レヴィナスはこれは同害法(ユダヤの古代法「目には目を、歯には歯を」を含む)によって言語道断なことだとも言うので許しているわけではない。一方マルクスは「賃金とは、労働の対象たる生産物をもとに労働にたいして支払われるもので、労働の疎外の必然的な帰結たる賃金のもとでは、労働は自己目的ではなく、賃金に仕えるものとなっているのだ」とまっとうなことを述べている。少なくとも賃金は労働の対価であるから、労働者側からすれば、労働力を売って金に変えているだけだということになるのだが、実存的には金で買われたのだ。
 この負い目がついてまわるということによって、サラリーマンが独立自由の存在ではないということだ。いくら自由に発言し、行動しているように見えようとも、これはついてまわる。
 そのことは、常に「業務命令」には逆らえないことを取ってみても明らかだろう。いやなら辞めてくれ、ということで売られるのである。固有なるAが売り買いされるということではなく、Aのあとには誰もが入れ替え可能だということによって売られるのだ。
 このことはサラリーマンの存在の本質をいいあてていると言っていいだろう。
?「秋の日」1985年11月
 「秋の日」は虫歯の痛みを期に抑うつ状態におかれた30代のサラリーマン、なにもせず無為に20年を過ごし、50代でまた働きはじめるという経緯だ。
 切れるサラリーマンから抑うつからうつ病へとむかっている。そして、それは未来へ20年とながくひきのばされている。ここにこの停滞がすでに長い時間を必要としているものであることとが暗示されている。
 本当にこの男は女房と別れ、そして同棲していた愛人にも死に別れて、自立したのかどうか疑わしい。しかし、なんでもないような虫歯の痛みに耐えかねて、発作におちいるということがさもありうるかのように描かれている。やむにやまれぬ義憤でも挫折でもなく、ちょっとした気分によって陥ってしまうというところにすでに時代の変わり目がやってきていたということを感じさせる。
?途中で抜けた「椋鳥」と「眉雨」そして「風邪の日」には特にサラリーマンは出てこない。しかし、時代の情況がおおきく変わってきていることは間違いがなくて、解説にもあるように「風邪の日」は著者古井の「先導獣の話」から二十年の作家生活最前線の頃のもので、過去の記憶とのはざまで未来を思考しているのがわかる。個人史の話とともに、そこに日本経済がかかわっていた。
?「木犀の日」になると主人公は昔なら定年をむかえる齢だという。(古井は56歳だった)
 「すこしでも用からはずれると為ること為すこと訝しく感じられる日があるとは停年に近い頃の心理として聞いたところだが、終日家に居るのが稼業の自分も、昔ならちょうどこの秋で停年を迎える」
?「背中ばかりが暮れ残る」
 女に食べさせてもらっている男の30年(30代、40代、50代)を作者の分身として想像してみるという像を通して描いている。
 この分身の男と直接関係はないが、それと想像させる男との思い出が語られる。それはまだ学生だったころ登山で知り合った男で、下山したバス停で声を掛けられ、食事に誘われる。そこでの会話だ。30年前というので、1964年頃だろうか。

 「大学を出て会社に入ってから、そろそろ九年経つか。その間、もうこれまでと、まわりでもささやかれたことが、何度あったことやら。そのたびに上から下まで殺気だって駆けずりまわって、しゃにむに押し上げてきた。今から振り返ると僕など若手が見ても、おそろしいような高いところまで昇ってきたものだ。しかしこれもすべて、しばしの夢みたいなものだった、ということになるのかもしれない。いや、夢などとは、僕らの言うべきことじゃない。ただ、もうこれまで、と今までくりかえしてきたことが、もしそのうちに、ほんとうのこれまでになったら、僕らは、やっぱりそうなったか、いい夢を見させてもらったわけか、とそう思うだろうな。そんな心で今までやって来た。今もそういう心でやっている。古い人は危機を乗り越えるたびにはしゃいでいる。新しい人は何とも思わない。僕らが徒労感のようなものに、身が持つかということでね。見かけによらないでしょう。」

 こう述べる男は30手前で、まだこれからだというのに、すでに先行きを予想しているかのようだ。高度経済成長期といい、バブル経済期と謂っても楽々と仕事をしてきたわけではない。現場、現場は切実でひたすらがんばってきたのであって、安穏として成長してきたわけではなかった。しかし、これがバブルが崩壊して、ジワリ、ジワリと停滞があきらかになるにしたがって、このガンバリが空疎になり空回りしているような現場の切実さに変わっていったのはたしかだった。すでにこの人物はそれを先取りするかのような感想を述べるのだった。
 想像上の人物とこの男は同一人物ではないが、年中変わらずに机に向かう人物を想定すると、いつもあの駅で別れた男性が記憶からよみがえるということは、「あの影はやはり想像上に落ちているのか」と思う。
 末尾に記された、故人からの手紙はすでに死んでいると知っているのに、生前出された手紙が届いた話だ。遅延を語っているのだろうか。バブル崩壊は目前にせまっていた。つまり背中ばかりが暮れ残ったのだった。
 ほぼこの時点で、経済が崩壊するだろうことは、心の中にみんなが持っていた。それでも自分だけはくぐり抜けたいとまだもがいていたのだ。
 そして、経済ということ。誰にだって経済はあって、経済のないひとはいない。経済はとくに人の人生に影響をあたえる。これまでみてきたようにサラリーマンはそのまま経済の問題にほかならない。経済は今日を食べ、明日を食べていくことだから、基本的に経済システムとは別のことだが、このシステムが大きな影響をあたえる。ひとはただ食べているだけの存在ではないので、ただ食べていくことだけにも観念領域が作用する。そんな心的な現象をもった存在であるため、うつ病になったり切れるサラリーマンだったりする。これは心的領域のものだけに見えるかもしれないが、決してそうではなく、この経済システムの推移と未来への予想とが大きく関係している。(けっして、上部構造が土台に規定されるということを言っているのではない)そして閉塞感はなによりもこのことなのだ。
 以上ざっとみてきたサラリーマン像はともすれば否定的な像かもしれない。しかし、狂喜乱舞する成功者たるサラリーマンでは人間の本質はみえてこない。どうしても見るべきはその悲惨にしかあらわれないだろうからだ。そこからかいま見られた姿こそが本当の姿なのであるから。

ところで、バブル崩壊の1997年はいかに描かれているかが気になるだろう。本自選集には含まれていないが探してみよう。それはバブル崩壊を決定ずけたと思われる、1997年11月の証券会社の破綻直後の作品である。探してみると、それは1998年『群像』2月号に発表された「死者のように」にあらわれている。
 古井自身とおもわれる主人公の「私」は、ある駅のプラットホームで中年の男性に声をかけられる。昔、ドイツ語の授業で教えを受けたと告白される。記憶のなかを探ると、いちど授業のはじまる前に、登校の道で数分会話をしたことがあると思い出した。そのときすでに20代前半にみえる青年は、大学検定を受けて入学してきたとはなしていた。また、15歳からは空白ですとなぞのような言葉を残していた。それからは出会うことはなかった男性と通夜のかえり電車のなかで偶然遭遇した。それと気づいた男性が躊躇していたが思い切ったように「私」の隣にすわりはなした会話がこうだ。
 「「お通夜ですか」と相手は私のみなりを見てたずねた。
 「この雨に、大変でしたね」と私をいたわった。
 「もう還暦なので、のべつのことになりました」と私も慇懃に答えた。
 その調子で会話が続くと思われた。ところがいきなり青年の声が、
「もう、デッドですよ、僕も」と嘆いた。
 「失業しかけています」とやがて年相応の声になった。「会社はすでに、実質、倒産です」
 ついその前の週に大手の証券会社が破綻をきたしたところだった。」
 もちろんこの破綻は山一証券のことにほかならない。この中年の男性も何とか会社に潜り込んで2〜3年つづけて来たがこれで終わりだと悲痛な声だった。そして別れ際にのこして言ったせりふは「空白と言ったのは一五歳から何年も、少年院にいました」というものだった。経済成長とバブルによってやっと浮き上がってきたのが失業という不安が影を落としていた。だれにとってもひとつの転機になることはまちがいがなかった。
 崩壊はしても、それでも経済は続くのであって、これでなにもかもが終わるわけではない。事実、失われた10年いや20年というようにV字回復どころか、死に体となって、その後10年以上が過ぎてきたわけだ。
 あざやかに時代を描いていたといえるだろう。

 すでに古井の諸作品に接してしまって衝撃をうけた上では、論ずることはむつかしい。また何かを書けるはずもなく、なにかを指し示すということもなんとむなしいことだろう。指し示したところでなんになると言うのだろう。むしろそこに現れた像に寄り添ってみるほうが重要なのではないかと思う。
 それは自分の関心事から読むということで、それならサラリーマン論の延長で考えてみるしかないだろう。古井由吉が自選として選んだ講談社文庫『木犀の日』所収の作品群を手がかりに使ってみたい。1968年「白猫」に発表された「先導獣の話」からはじまり、「群像」に1994年に発表された「背中ばかりが暮れ残る」までの作品にあたる。
 日本経済史的に見ると戦後復興からようやく立ち直った経済が、高度成長をめざして1960年ごろよりはじまり、ようやくその成果をあらわしはじめた1968年にあたる。1972年と79年の二度のオイルショックにもめげずに、再度経済の成長をおしすすめようと、バブル経済へと突入していく真只中であった。