ブログの文体について6

ブログの文体について6

ハイパーテキストの対極にあるのがシーケンシャステキストだろう。シーケンシャスとはひとつながりのものという意味だ。
小説とか人文書のように終わりまで読み取ることによって、全体の意味がわかるようになっているテキストのことだ。始まりがあれば終わりのあるテキストは自明のことであるかに言われているが、作品が完結するというのはこの近代のニ〜三世紀のことにすぎない。古典では初めから終わりまで完結するようなものはごく稀である。異本もあるし、むだな繰り返しも多い。むしろ完結していることを前提にしていなかったと思える。グーテンベルグ依頼の印刷本の普及が完結本をつくらせたのである。印刷本というメディアそのものの特徴なのだ。
そうだとしとも意味としてはまとまりのあるものだった。その言表は独立しており、リンク不可能な世界でもある。集成としてまとめる(編集する)ことがあったとしても、真にリンクさせることはできない。独立して存在しているのであるから。
この独立した断片をブログにする文体はあるのだろうか?
ブログ上にしかなくて、印刷本化できないような文体などというものがあるのだろうか。
ひとつは詩的言語を使うというここと、もうひとつはアフォリズム的に書くしかないのではないか。アナロジーすべきはこのふたつだろう。具体的には俳句だけのブログ、短歌だけのブログなら現在でもあるのかもしれない。
現在においてブログからみれば対極にあって、また印刷本のなかでもマニアックな本になってしまうようなものであることには違いない。