ブログの文体について5

ブログの文体について5

ブログをテキストとみると、それはたがいにリンクされた言表であることがわかる。それは百科辞典の記述などとおなじようにたがいにリンクされることをめざしている。ブログ一枚にコメントありトラックバックありのリンクの世界であると言っていい。そのためには要領よく纏められている文体が選ばれている。いや、またそうであると前提されるかもしれない。
それをハイパーテキストと呼んだ。
ハイパーテキストの寄って立つ基礎は、たがいにリンクすることによって知識の宝庫ができると信じたことにある。
グーグルだって世界のテキストから画像や動画までも検索可能なようにしようと試みている。しかしながら、いくら全世界の情報を過去から現在まで検索可能にしても、無いものは検索できない。まずは未来のテキストはない。そして言語化されない知はそこにはないのである。
そうだとしても、ハイパーテキストとしての文体はブログについてまわるに違いない。つまり簡潔にそして論点はひとつか二つにする。短ければ短いほどいいのだ。



ハイパーテキスト論の奇書,
テッド・ネルソンの『リテラリーマシン』(アスキー出版社)にこんな記述がある。
話し言葉も普通の書き言葉も、単語が続いたものである点では同じだ。私たちは、順序だてて書かれた書物に慣れ親しんできたために、書かれた言葉は、本来ひとつながりのものと容易に考えかちである。だが、そうする必要はないし、またそうするべきでもない。
ひとつながりの表現をやめることについて、有力な論点がふたつある。ひとつは、〈ひとつながりの表現は、全体の統一と相互関連構造をだめにする〉というもの。もうひとつは、〈人つながりの表現は、すべての読者にひとつの順序を強要するが、それが結局どの読者にとっても適切なものではない可能性がある〉というものだ。」

ここには言語に関するおおきな誤解がある。ひとつながりの表現が統一と相互関連構造をダメにするといっているのは逆である。むしろハイパーテキストのほうが統一性に欠ける。相互関連も明示的な指摘のいきを出ない陳腐なものになってしまうのだ。本書『リテラリーマシン』は個々別々の断片をつないでいる。かなりハイパーテキストを意識しているのだが、そのおかげでなにを言っているのか文脈がよくわからない。まさに統一性が欠けるのである。おそらくこの誤解は言語観の違いである。
もうひとつの「読者にひとつの順序を強要する」というのはまちがっている。だれも素直に読んでいるわけではない。飛ばし読みしている事ぐらいわかりそうなものだ。アメリカ人の本のようにクソ長い本をだれが隅からすみまで読むものか?