ブログの文体について4

ブログの文体について4

ブログの現在ということであるならば、〈はてな〉の取締役の梅田望夫さんにでも聞いてもらうしかない。
そうではなくて、ブログの文体の可能性のことである。
可能性とは言語のヴァリエーションのことではなくて、現在への可能性のことで、現在というのはわかっているようでいてわかっていない。常にマンネリ化に陥り現在を安定化してみようとするのは人の常である。いかに固定した思いこみを刷新して新味をつむぎ出してくるかというのが可能性なのだ。
言語表現は多様であるが、現実が多様なわけではない。ほとんどの言語表現は既存の表現の上に乗っかっているのであって、そこから容易に出ようとしない保守性にさらされている。そこから一歩でも半歩でも前進する行為の可能性のことである。
そのようなブログの可能性となったものが実際に存在するのだろうか。
ひとつは現在性であって、ブログは一見してテレビによく似ている。関心は常に現在なのだ。今直ちにの情報が命であって、時の経過は陳腐化への一歩なのだ。新鮮さこそが命である。
もうひとつはまったくの反対の永遠性である。サイバーの続く限りでの置きざりであり、アーカイブである。いつ更新したかわからないというだけでなく、そのまま書き飛ばして放置された言表たちである。
人によって読まれることがなければ意味はないということであるなら、まったくの無意味の山積みなのだ。
しかし、価値がないわけではない。価値はあるが意味がないのだ。それらは言わばロングテールであって、圧倒的なロングテールにほかならない。
このロングテールの意味を見出されるのはごくわずかにしかすぎない。いくらロングテールを持ち上げてみても、個々のロングテールにとっては無きが等しい。そのようなロングテールに意味を見出す事はできるのか。それを可能にするブログこそ、求めているブログの文体なのだ。