岡崎武志『読書の腕前』光文社新書

能率よく読書して早く知識をえようという読書ではない。ゆっくりたのしんで読む読書について書かれている。それをアナロジーして「歩く」ことに似ているという。他に何かをしながらできるものではなく時間を占有してしまうものだというのがその似ている点だという。読書をしながら映画を見れないように歩きながら本を読むことはできない。でも、音楽聞きながら歩く事はできるし、本を読むことができる、風呂にも入りながら本を読むことができる。そんな言いがかりはつけないで、言うところの意味はかなり集中してそれも時間のかかるものだということと、散歩しているようにただ散歩で移動したというだけなくそれ以外の情報も入ってくるという意味で、読書ならのそ論旨だけではない発見があるということだろうか。
ついぞそんな読書はここ暫くしていないような気がする。追い立てられるように読む毎日なのだが、地球上のすべてを歩く事はできないように、すべての本を読むことはできない。そう思えば、なにをガツガツ読んでいるのか情けないような気もするが、やめられない、止まらないという日々である。

興味深かったのは一章の末尾で、読書のすすめはささやきの中から伝道されるといことで、はたと膝を打った(実は机を叩いたのであるが)、本当の事が流れ込むときは、いつもしばしば始まり出すとすべてが入ってしまうものだ。教育と言っても同じ事なのだろうか、その流れる瞬間がある。そんな瞬間のない教育も人と人の関係もつまらないものだ。いつもその瞬間が来るのを待っているのだ。そんな楽しみこそが本当は読書の楽しみなのだ。
つまりは自分が発見するその楽しみの事だ。書評も、広告も書店周りもみな同じことで、このきっかけを探している。