ブログからの「読書イニシアチブ」ホームページ批判

何と言っても公式ホームページにある「読書イニシアチブ」の概念がそもそも不明であるてんが一番であろう。なにをイニシアチブするのかが明確でない。読書運動という名の読書推進運動ではないことはすでに述べられている。しかし、読書そのもにもりこまれている理念なり概念がはっきりしない。近頃ではコンセプトというらしいが、これが明確でない。
次にデザインのことについて、画像がなくて人々を引き付けないということだ。人の認知は視覚が66%で聴覚が23%であるといわれる。ことばはわずか3%にしか過ぎないのだ。それらの常識から考えるならおとずれた訪問者の気を引く画像がないというのは致命的だと思われる。文字中心の書物でも表紙や帯には工夫を凝らしているではないか。モノとしてのパフォーマンスを持つ限り、この工夫は避けて通れないのではないだろうか。インターネットの初期のような単純なホームページビルダーの使い方、面白みのないモノトーンな羅列をあげる事ができるだろう。
百歩下がってこのデザインは自由だとしても、なにを実現したのかのコンセプトがよくわからない。本を売りたいのか、書評を書きたいのかが不明である。二種類の違った機能の同在は、統一性にかけるのではいだろうか。二つのものを追っかけて、互いが打ち消しあっていることになりはしないか。
その結果はホームページの訪問者が少ない事だろう。誰も、とどまってくれなければ、読んでくれなければ、いくら書評を書いても無きが等しいのではないだろうか。まさにロングテールロングテール。先の端のテールに他ならない。それでもいいんだというその根拠はどこにあるのか?まずは価値はあっても意味はないと言っておこう。
それらのホームページ観は小説掌編によってあらわされているが、この見捨てられたページ・・・。墓場に入ったように何年も更新されないものならいざ知らず、毎日のように更新しているのに訪れる人がいないというのでは、恋愛の裏返しではないのか。ひとりでこつこつやっていますというのはいただけない。何かを解明すべく求めているならそれをはっきりさせるべきだ。
今のところ思いつかないというのは、いつの日か知的ワクグミを提出できると考えているのだろうか。
おそらく出発点は「読書アドバイザーとはなにか」にあったのだろう。
その概念が消滅してしまったことによって、それに変わる「読書イニシアチブ」が構想された。しかし、「読み」を中心とした読書論でも、書物そのもを中心とした読書でもない〈読書〉というものはいったい何だろう。そういったものを提出できるのだろうか。