宮崎哲弥『新書365冊』朝日新書

宮崎哲弥『新書365冊』朝日新書

新書流行りの昨今朝日新聞社も新書に挑戦して朝日新書を創刊した。営業的な思惑はともかく、その新書ブームの中ひたすら新書を読んできた宮崎哲弥の新書評価本である。
 この手の新書の分類はメタ新書の発想で本のうえに本を重ねるようなものだ。情報としての新書はコンパクトにまとめ上げた本で気軽に読めると考えているのは私だけではないだろう。
 おもしろいのは評価できるおすすめの新書を紹介しているのではなく、問題な新書としてワースト新書も列記されていることだ。「買っはいけないこの新書?」よろしく愚劣が列挙されている。一流科学者の信仰に出会った時の愚、擬似科学の愚、批判精神全く欠けた思想紹介の愚、日本人じゃないから言ってしまうがノーマン・チョムスキーの政治的発言の愚、権威まで登りつめれば何を言ってもかまわないと考えている愚、極端なアナロジーの愚、精神分析の熟語を振り回しての床屋政談の愚、こんな程度でいいのかサル学者(これは霊長類を研究しているという意味です)の愚、などが列記される。
 それらは小気味よく切り捌かれているが、多くても十数行で短いのは一行でばっさりというのもある。
 ところで同じような新書をあつかった、坪井祐三『新書百冊』(新潮新書)について、坪井によって選ばれた百冊と、宮崎が選ぶであろう百冊が、丸山真男阿部謹也あたりを例外としてほとんど重ならないと言っている。これは読書経験もさることながら、読書目的が異なっているからだろうと説明している。私などはほとんどなくて、選出された中で読んだ本は一冊しかなかった。ことほど左様に人によって読書というのは多様性があるといえるだろう。そうだとするとこの手の本からは何を求めればいいのかと考えてしまう。やはり新書の交通整理というよりは、いかに出会うかという問題につきるような気がする。たとえ数行のコメントでも何か引っかかるものがあればよしとしよう。本書でも読んでみたい本が数冊あった。
 しかし、おなじようなこの手の本で、永江朗『いまどきの新書』(原書房)があるが、こちらの本でも三冊ほど見つけて購入したのであるが、永江の書評のほうがずっとおもしろくてがっかりした経験があるので、そうたやすくは手をだせないのであるが色々とヒントをもらえることは嬉しい。
 さてさて、この新書ブームでいったいだれが読んでいるのかというと、永江朗が主に中年以降の人々、特に団塊の世代が読んでいると言っていた。若い人は読まないのだろうか?ゲームに夢中でそんな暇はなにのかもしれないが、これから生きていくべき人たちこそ読むべき本なのだと思うが、いかがなものだろうか。単なる教養とかハウツウとかでなく、問題意識に根ざしたものを読むべきではないだろうか。自分達の人生を切り開くためにも必要と思うのだが。団塊の世代に受けるような新書では先行きは暗い。