鷲田小彌太『まずは「書いてみる」生活 「読書」だけではもったいな

dokusyoin2006-11-16

鷲田小彌太『まずは「書いてみる」生活 「読書」だけではもったいない』祥伝社新書

かなり定年を迎えるひとを意識しての「書くこと」のすすめではあるけれど、定年に関する記述は少ない。一般的な「書くこと」のすすめになっている。すべてはタイトルにしるしてあるとおりなのだが、この「書く」という事が一様ではない。鷲田の「書くということ」のスキルはいわゆるアメリカンライティングとして紹介されてきたものに近く、三分割していく方法である。章立て、節立て、項目立てに細かく区切っていく方法でもある。これは慣れてしまえば、これほど読みやすくまた分かったような気にさせる書き方ではあるのだが、さて鷲田も自分で記しているように「嚥下してすぐ排泄」ということにもなりかねない。
むしろ、ひっかかりのある文体と構成のほうが印象に残りやすい。そしておねおねとしてどこが主語でどこが述語か分からないような文章も丹念にたどっていくと文意がみえてくるというのがいいかもしれない。
ところで定年になってすぐに文章をかけるという人は少ない。私もかなりな人に勧めてみてもほとんどの人は書かない。書くには訓練を必要とするので、ことはそう簡単ではない。しかしながら鷲田はともかくも書こうとしているひとには懇切丁寧で、もし本にしたものが批判されたり文句をつけられたたらどうしょうといったことまで指南してくれる。編集者にねじ込んだり、書き物で反論したりせず「批判が肯綮に当たっている場合は、言い訳、批判には批判で答えねばならないという敵愾心等を封殺して、じっくりと実作で答えてゆく、というものです」と優等生になることを勧めている。けっして鷲田氏がそう処したというわけではないのだろうが本当にそんなことができるのだろうか。でもそれはケースバイケースでどのように対処するかはわからない、というのが本当のところだろう。本にするというときに一番気になるのはやはり批判されたりバカにされたりするのが辛いというのが大きなネックになることは間違いがない。本にしませんかとすすめてもいつも嫌がるのはやはりこの点だ。嫌がるというよりも躊躇するのだが、本人が考えているほど他人は読んでくれないし、わざわざ批判してくれる人も少ないというのが現状だろうか。