樽見博『古本通』平凡社新書、2006

dokusyoin2006-04-23

書評

樽見博『古本通』平凡社新書、2006

 朝日新聞のBeで紹介された八木福次郎氏の日本古書通信に入社した樽見博は月刊『古書通信』を編集していたという。「古本ブームというより古本屋ブーム」なのだという、先の記事の見出しをみるなら、それもうなずけるような気がする。識者なら本は読むもので、本そのものよりも古書店のほうがブームになるのはいかがなものかと嘆くかもしれない。それほど読書いいこと信仰は深い。しかし、ショップもひとつの文化であるから嘆く事はない。古書組合のように市場を作って売り買いしているのであればそれはそれで経済に資すること大といわねばならない。
 読書人は新聞や世間で考えられているほど減少はしていない。なるほど、ゲーム人口に移行したり、DVDや他のメディアに押されて減少しているかもしれないが、読書は仕事で読む必要のある人を除けば総じて中毒であるからやめられない。読者人口が減少しているのではなく、本や雑誌の売り上げが落ちているという事であって読書そのものは人口の一定程度の割合はいつも存在している。読む人たちはいつもよんでいるのだ。
 しかし、この古本通に現れた人たちは必ずしも楽しみに読書しているというよりもむしろ仕事で読んでいる人たちだったり、商品としてあつかっている人々である。商売の鉄則で「商品には手を出すな」ということであるなら、誰も本を扱っても読んではいないのかもしれない。商品知識は豊富にあっても、読んでいるとは言いがたいのではないだろうか。
 そんなことを考えながら読んでいたら、読む側の立場から一気に現実にひきもどす第二章「古書決定のシステム」に出てくる実際を想定した入札のシミュレーションに出会った。デザイン関係本を例に挙げて(例題は7冊のデザイン関係本で示されている39頁)その価格決定のシステムについての知識がその内容ではなくむしろ古書間での位置づけの知識であるという。
 ここには読みたい側の論理ではなく売り買いする側の論理につながれているので、その論理は本そのもの付き合いの世界ではないのだ。私などは能天気に本を愛玩しているだけだからとうてい古書店はやっていけないと思う。この古書店ブームのミーハーであるからそれはそれで仕方がない。ほかの方法を探すしかない。