梅木達郎『サルトル 失われた直接性をもとめて』NHK出版2006

dokusyoin2006-04-09


書評
梅木達郎『サルトル 失われた直接性をもとめて』NHK出版2006年


 哲学のエッセンスシリーズに収録された一冊。
 世界との直接なつながりをもつこと、それがサルトルの直接性である。そのために直接に概念やことばによらず語りだす現象学に興味を持ったといわれている。
 直接につながらないもの、例えば戦争、例えば歴史、例えば社会などはどうすればいいのかというと、否定して浮かび上がらせる以外にないという。そして直接に知りえない対象に対する倫理をつくろうとし、マルクスに接近したのだと著者はのべる。しかし、著者も語るように、サルトルが生涯を通じておこなったのは「直接性の経験」は、端的に不可能であることを証明することになったという。
 直接性を批判するものではない。現象学による志向性によって分析する直接性は何も批判することはない。むしろ支持したいくらいである。私も直接性は大いに必要だと考えている。それというのも暗黙知はまさにそのものにディアルインすることであるから、この直接性は否定しきれないのである。知ることは重要である。知らなければ超えることはできない。サルトルのように歴史や社会、戦争といったものは直接触れることはできないので現象学的分析はできないとは言わない。なぜなら個別諸細目にあたれば必ずや、その全体像は(その上位概念の意味)浮かびあがってくるのだから。その方法論のないサルトルは個人レベルと全体レベルをつなぐというように考えなければならず、それはまったく不可能なことである。
 すこしでも可能性があるとすれば、それは文体上の工夫以外にはなくて、それはレヴィナスのような砂嵐のような文体にならざるを得ない。
 ともかくも直接性を無視したりはしない。むしろ、そのものに潜入するという意味では我々はいつも直接性の味方である。