注解版読書アドバイザーとは何か5

先週は中学校の同窓会があって、何十年かぶりに懐かしい顔に出会った。不思議なもので何十年も経っているのに、その人の対応なり性格がほとんど変わっていないのにきずいた。生活や、さまざまな出来事をかいくぐっているのでそれなりに大人になってはいるのだが、ああこの人は昔も同じような対応をしたよな、という事が思い出されて、むしろそれが懐かしかった。話しやすい人は今でも話しやすかったし、敬遠しているひとには今でも敬遠された。昔を引きずっているという事かもしれない。


今日の連載分

読書アドバイザーとは何か5意味読解と意味付与
 先回でおおよその〈読書アドバイザー〉についてのわたし達の考えについて述べてきました。しかし、読むということでインプットしたものが、どうしてアウトプットしなければならないのかということがもうひとつすっきりしません。そこで今回はもう少しこの問題について語ってみたいとおもいます。
 読むということが情報のひとつの入力であるとすれば、入力された脳から出力として情報がでていくと考えることは、情報理論からいっても容易に想像できるものかも知れません。しかし、なかなか出力するというのはできるようでいて難しいものです。そうすると入力されたものは入力されっぱなしかというとそうではないのです。何らかの形で出力されているのです。出力といっても文字で書き出すことだけではなく、行為であったり、行動なりで出力しているはずなのです。それが他人にとって容易に読解できるように出力されていないということが原因のです。
 一般に私たちは、あらゆるものを意味読解し、そして意味付与として出しています。それが文字情報であったり、行為であったりするわけですが、これを〈読書アドバイザー〉の理論に当てはめてみると、この経路を促すことがその役割であることが理解されるでしょう。
 〈読書アドバイザー〉はコンサルティングするだけでは意味がありません。むしろその知を使ったアウトプット〈出力〉をうながすことなのだと述べました。これは文章化してみたり、自らビジネスを立ち上げたりするということだけではなく、もっと身近に、グチを述べるような表現まで含んでいると考えていいでしょう。
 高尚な表現としてのアウトプットは、自己の考えが成立していないと不可能ですが、誰も彼もが行えるわけではないのです。そのような表現は稚拙だといってはいけないのです。
 そして〈読書アドバイザー〉も自ら表現者として、行動者として、アウトプットしなければならないということは前にも述べました。このことが他人の評価をうることだしまた、インプットした自らの知識を組み直してアウトプットしていく生理にかなっていると考えられます。
 これまで、入力だとか出力だとか、そして言い換えてインプットだとかアウトプットだとかさまざまに言い換えていますが、語を統一して来なかったのには理由があります。単なるコミュニケーションの理論として、入力や出力を言っているのでもなければ、情報理論としてのインプット、アウトプットを考えていたわけではないのです。私たちが生きているということ自体が意味を読解しようとしていることだし、また意味を付与していることなのです。そのことを踏まえたうえで読書を位置づけようという思いがそうさせるのです。
 化学者でもあり哲学者でもあったマイケル・ポランニーは『知と存在』の中で意味読解(sense-reading)と意味付与(sense-giving)について次のように述べています。

 自然における意味を発見する純粋科学は意味読解の営みであり、それに対して、一定の目的のために事物を加工する技術的な発明は意味付与である。
(マイケル・ポランニー「意味読解と意味付与」山根耕平訳『知と存在』所収)

 ここには自然の原理を発見する純粋科学は自然の意味を読み解くことであり、その意味によって加工された技術的な発明は、意味を与えた表現、パフォーマンスなのです。それぞれに具体的に存在する個人が関わっていないことには説明できません。
 これを言語上のコミュニケーションに移すと、ある対象を言語でもって表現するというのが、意味付与であり、その対象をつかもうと読みとるのが意味読解だと考えられます。
 この関係については同書にも「わたしたちが今まで行ったこともない国に旅行すると仮定してみよう」で始まる例によって考察されています。この例では旅行者(A)はその経験と感動を友人に手紙(B)を出すというシチュエーションをもうけています。そしてその友人(C)は手紙を読むのです。そすると、旅行者(A)が、風景やら体験やら感動を読みとるというのが意味読解で、手紙にしたためたのが意味付与ということになります。そして友人(C)はその手紙(B)を読んで意味読解をしているのです。相互に意味読解と意味付与は入れ替わっていくわけですが、重要なことは、友人(C)が手紙(B)を意味読解している意味というのは、旅行者(A)が、はじめに読解しようとした体験、感動そのものではありません。最初の意味は「直接的に経験される」が、第二の意味は「思考の中に在るだけ」の意味なのです。
 あまりポランニーの理論に深入りするつもりはないのですが、ここでは意味読解、意味付与にかんして少しだけふれてみましょう。この形式的なシェーマを読書に強引に類推してみますと、読書は当然意味読解であると考えられます。すると意味付与はどのようになるのでしょうか。先の旅行者のように手紙を出すということもあるでしょうし、また話して聴かせるということもあるでしょう。紀行文にまとめるかもしれません。ただしこの構図には常に暗黙知の関与なしには成立しないので、それをコミュニケーションの一般論として解すると、説明しきれないものが残ります。暗黙知の関与は個体の存在を想定しますので、個人(体)の行為、存在というのは、この繰り返しにある探求(M・ポランニーは「探求」と言っています)を行うことなのです。まさしく知ることは存在することであり、存在とは知ることだという哲学が生まれているのです。


突然、マイケル・ポランニーが出てくるわけではなくて、どのように説明したらわかりやすいかという事で、意味読解と意味付与という概念を導入した。しかし、この概念はあまり有名ではないし、また分かりにくかったかもしれない。何よりも意味読解も意味付与も暗黙知の意味が分かっていなくては理解できない。しかし、一般にこれまで接してきた人々との交渉を勘案しても暗黙知の理解は容易ではない。