注解版読書アドバイザーとは何か6

注解を書くにはなかなか難しくてうまくいかない。これはこのまま提出してしまった方がいいのかもしれない。


読書アドバイザーとはなにか6知は個体のなかにあること

 先回は意味読解と意味付与の理論から、単に読書するだけではたりなくて、発表をうながすことについて述べてきました。今回は、その読み取るべき対象が、常に記述されているとは限らないということについて再度述べてみたいと思います。もちろんそれらも〈読書アドバイザー〉の対象になっていることは言うまでもありません。
 知識はすべてディスクールされているかというと言うとそうではありません。いくら得がたい知識を文献を探ってみてもすべて探し出せるわけではないのです。
 データベース論に見るように必要な知識をデータベース化しておけば、必要なときに必要な情報が引き出せるという考えがありますが、本当に必要な情報はそんなところにはないのです。ちなみにある語について知りたいと百科辞典を調べてみたとします。そこには最初は新しい知識であってもすぐにそれだけで終ってしまいます。すこしくわしく調べてみようとしても、関連事項を調べるのが関の山です。インターネットの検索に移してみればもっとはっきりします。同じ情報が手を変え品を変えて出てきます。同じ物は同じ物なのです。学術上の文献検索でも同じです。無い物は無いので、いくらデータベースを調べてみても先に進むことはできないのです。データベースの外にあるものは知らなくてもいいというのなら話は別ですが、そうでないなら探さなければならないわけだし、または自分で考えなければなりません。しかし、私たちが考えている以上に知識は存在します。単にディスクールされていないだけのことなのです。むしろ大切な知識は個人の中にある、いや個体の中に存在しているのです。それらは幸運があれば、伝承されることもあるでしょうが、むしろ個体の死とともに消滅してしまっているのがほとんどだというのが現実なのです。
 現代でも大切な技術、知は個人のなかにあります。たとえば身体性に関する知などは、この傾向が顕著です。 
 現代の武術家とでもいえる甲野善紀は、古い武術家の知を復活させてみせました。甲野は古武術と呼んでいますが、その著書『古武術の発見』にはその一端があらわされています。養老孟司との対談で次のようなエピソードを話しています。

 甲野 武術の伝統なんて一般の人どころか当事者にもよくわかっていないんです。(笑)現実にいまやっている柔道家や剣道家でも、かって実際にどんなすばらしい技があったかなんて、ほとんど知りません。そんなのは、昔話や剣豪小説の世界だけの大げさなつくり話だろうと、頭からキメ込んでいるんですね。せいぜい「あるいは、そいうこともあったかもしれない」というくらいで現実感はもうまったくなくなっております。
甲野善紀養老孟司古武術の発見』)

 昔の剣豪家がいかに身体性に関する知をもっていたのか、それらが小説ではないかと誤解されるような身体能力をそなえていたのかということが指摘されています。それらのエピソードの中では、これは前にも書いたことがありますが、夢想願流の松林左馬助無雲という剣豪のエピソードです。甲野もこの話は好きだったらしくて、何度も著書の中で紹介しています。

 夏の夕方、蛍見物に川べりを門弟とともに散歩していた無雲を、門人の一人が川へいきなり突き飛ばした。無雲は突き飛ばされたなりにフワリと川を踏び越え、しかも突き飛ばした門人も気づかぬ間に、その門人の佩刀を抜き取っていたとか…。
(同右)

 このようなエピソードで門人が師をそう簡単に突き飛ばしたりするだろうかと疑ってみることもあるでしょうが、それがこのエピソードの本意ではありません。これは作ったような話であっても、そこにある身体性について注目することなのです。
 甲野は自らこういった古武術の術理を再現すべく、一歩でも近づこうとしています。その出発点が「井桁の術理」であったわけです。
 このようにすでに立ち消えになったような個人の知はこれ以外にもいくらでもあるかもしれません。むしろ言語化されることが少ないのが、技術の分野でしょう。その人が死んでしまえば、すべて終ってしまうという知識はかなり多数見つけ出すことができるでしょう。
 これらは元々言語化できないものなので、伝承ということになれば、人から人への伝承、つまり個体間の伝承でなければならない性格のものです。(言語化されれば伝わるかというのが疑問なのは、ポランニー理論の所でも述べました。)
 この伝承はいかになされるのかについて考えてみたいと思います。
 知は本質としてすべてを公開していたのでは伝わりません。知の本質は他人から見ればそれは「チラリズム」(変わった用語ですが後をみてください)なのです。すこしだけ垣間見ることによって、欲するのであって、そこで伝わるのです。 
 知は意外と思われるかもしれませんが、並べ立てるものではないのです。なぜなら並べ立ててしまうと、誰も相手にしなくなってしまうからです。必要な知識は黙って自ら仕入れておくべきもので、知は師との間で伝わるのです。下世話風に言うなら、その瞬間はちらっとみせて、それに食いついていくという図式なのです。その瞬間のない知は伝承されないのです。伝承とは「わかる」ということであって、この「わかる」がないといくら知を文字面をなぞってみるだけでは内容が理解できないことに同じなのです。ことばをいくら聴いても「わからない」ことにはそれはうまく伝わりません。わからないことはわからないし、わかることはわかるという禅問答のようなことになってしまうのです。この知の伝承についても、先回のべたポランニー理論をつかえばうまく説明できます。知はつねに話してもらえれば解るというものではないのです。いくら話しても、諭しても、罵倒してもわからないものはわからない。「話せば解る」ということばが嘘なように、知を理解することはそう簡単ではありません。