注解版読書アドバイザーとは何か4

結局選挙は大差がついて終わった。
ここまで差がつくのはやはり小選挙区制のためだろうか。
郵政民営化よりアメリカからの期待が逆に膨らんで、そのための予算が気になる。


今回の連載

読書アドバイザーとは何か4〈読書アドバイザー〉の概念の拡張
 先回は〈読書アドバイザー〉の一般論についてふれました。今回はその概念を拡張して、もっと浮きぼりにしてみようと思います。
 まず、これまでの読書アドバイザーのように手助けするようなブックガイドはしません。ましてや本を読んで聴かせるということもしません。あくまで本をよむのはその本人であるのでそれを崩すことはしないでしょう。その代わりに知的好奇心を満足させるために、講師を招いての講演会、そしてセミナーを企画するでしょう。これらは、いわゆる学習に慣れた人たちにとっては、手っ取り早く、吸収できる装置ですので、これは欠かせません。ですが、原理的には聞き、そして発言するという過程を経ることが私たちの原理なのですから学習するというだけでは不十分です。むしろ積極的に発言の場というものを考え出していく必要があります。また発表の場(雑誌から講師まで)も必要と考えます。
 また特定の知的関心から、特別の研究者を雇うことがあるかもしれません。生活を保障して、研究してもらうのです。これらはシンクタンクのようですが、集団でもなく個人を教授として雇いいれることです。明治の初期に御雇い外人を招いたように、自分たちでは解決できない研究に出資することもあるでしょう。
 また自らの資材集めのために、図書館を創るかもしれません。博物館だって可能かもしれません。それは公的な機関が収集を手放して、散逸するかもしれない資料の収集という意味です。
 ともかくも、万人にとって〈読書アドバイザー〉は必要であるというのが私たちのコンセプトです。知にいたるのにわざわざ遠回りをする必要は無いのであって、最短距離を走っていけばいいのであると考えます。
 これまで知は独占され、隠匿されてきました。情報を持っているというだけで、特権的な地位に立っている人々がいたのです。現代ではそのような時代ではありませんが、まだまだ情報や知は独占されています。特に行政関係の情報はいっこうに開示されません。
 しかしながらこれらの独占の背景には、オープンにすると、自分たちの地位が脅かされるというだけでなく、そこにあいまいな恐怖感があるためではないでしょうか。しかしこれは全くの誤解です。誰もがやってくれそうもないややこしい仕事をやってくれようと言うのですからオープンにすればいいのです。特権的な地位はなくなるかもしれませんが、新たに研究したひとも情報がオープンになっているので、それによって特権的な地位につくことはないのです。得ることができるのは名誉です。その意味ではコンピュータでのシェアウエアに似ています。(注1)
 もうひとつ問題は、知は必ずしも記述されているとは限らないということです。むしろほとんどの知は個体の中に眠っているといってもいいでしょう。その個体の消滅とともに消えていく運命にあるのでしょう。工業技術をひとつとっても、これは文字化されているものはわずかで、肝心の部分は伝承の狭間に消えているかも知れません。特に製造業にかんしては造らなくなった時点で消滅する技術知識は数多くあるものと考えられます。これらの知識にも目を配っていく必要があるでしょう。文字化されない知ほど大切なものはありません。(これについては後に一章を立てます)
 最後にふれておきたいのはいわゆるジャンク情報です。全くあてにならないし、あやふやな情報および知のことです。これらは膨大な数で存在します。そしてなにが重要で何がジャンクかは、そのひとそれぞれによって異なっているのです。ある人にとっては重要な情報が、ある人にとっては全く重要でないジャンク情報であるということはありうることです。これらは知りたいものが何であるかによって、異なります。情報とは何かをめぐっての議論が必要になるかも知れませんが、ここでは深く立ち入ることはいたしません。ただひとついえることは、私たちはよく「情報の海におぼれる」とか「情報がめまぐるしく変わる」とかいいますが、情報は何も変わらないのです。変わるのは私たちの方なのです。このことが分かっていない。あくまで変わるのは向こう側にあるのではなく自分の方だということです。ですからジャンクであるかそうでないかはわたしが決めるわけですが、その私も変わるということなのです。今日はジャンク情報でも明日は大切な情報かもしれないのです。
 元々「とは何か」と問う論理というのは、ロシア文学にあらわれたゴンチャロフの不毛な貴族の生活を描いた『オブローモフ』という小説に当時の新鋭の評論家であったドボリューポフが『オブローモフ主義とは何か』で展開した論法でした。これをそっくり真似てレーニンは『人民の友とは何か』を書き上げました。それをパロディーとして、強制収容所に服役し、フランスに亡命することになるシニヤフスキーが『社会主義リアリズムとは何か』で社会主義リアリズムの愚を指摘しました。いずれもロシアにあらわれたこの筆法は根源に立ち戻ってその概念の意味を明らかにしようとする方法だったと内村剛介はその解説で書いています。日本では吉本隆明が言語そのものの考察に立ち戻って、新たに概念をあたえた『言語にとって美とはなにか』をあらわしました。いずれも「とは何か」と問う論理というのは積極的にそれまでの既成概念にとらわれることなく、根源に立ち戻って考えることだったのです。そしてそれまで何の疑問も特に抱かなかった語に、新らたな概念を付与するものになったのです。
 これに習って言うなら〈読書アドバイザー〉もその読むという本源に立ち戻って考察されることが必要なのです。