注解版読書イニシアチブとは何か3

読み返しているとよくもこんな恥ずかしい事を書いているという気がしないでもない。しかし、書いてしまったものは仕方がないのでその当時のまま掲載する。あくまで読書イニシアチブまでの前史であるので思考の道筋ははっきりさせておこう。たとえ、恥ずかしくてもそのときはそう考えていたのだから。
今日は衆議院選挙だ。この話題に触れないわけには行かないだろう。今回私はかなりマニアックな投票をしてしまった。小選挙区比例区で全く反対の投票行動だった。選挙のたびに国民としての意志を示しましょうというような事をマスコミは簡単に流すが、選挙がいつもなにを選択するかにあるとは限らない。限られた選択肢の中で選挙であるのでそれはいつも限定的である。民主党が政権を取れないのは「漁夫の利」を望んだからで、自ら戦い取らないと政権は取れないであろう。まだ午後六時だから、あと六時間後にははっきりしているだろう。

今日の連載分
読書アドバイザーとはなにか三〈読書アドバイザー〉の概念

 先回は、JPICの読書アドバイザーの養成講座の内容にふれ、そして読書そのものがよい習慣だとする考えはまだしも、そこから発展して教養を高めると言ったり読書の効用を言い募ったりするのは行き過ぎだと指摘しました。
 それでは私たちの考える読書、そして読みについて考えながら〈読書アドバイザー〉の概念についてふれていきたいと思います。
 まず「読み」についての概念ですが、単に本を読むというだけでなくて、「腹の中を読む」とか「先を読む」といったように、必ずしも文字の世界だけを対象にしているわけではないことは容易に分かります。また「地図を読む」とか「絵画を読む」のように、地図や絵画などから、ある意味を引き出してくることも「読む」と言っていることが分かります。また「情況を読む」のように、事態の把握に使うこともあります。「読む」ということを、さまざまに言い換えて、説明しょうとしているのではなくて、ひとつにはこれほど幅のあることばだということ。ふたつには、なんらかの現実より意味を引き出す作業だと言いたいわけです。これを「読解」と呼びますが、それは次回以降にまかせておきます。ここでは本を読むのも、現実を読むのも同じことなのだと考えてほしいのです。
 読書についても同じことが言えるのですが、ただ違っているのはこちらからの読みがないと読書にならないということです。それは文字面を読んでいるだけでは何もわかりません。本を読むという自分が中にいなければ何もよめないのです。それは自分の意見を持っていると言うことです。それは違うんじゃないかとか、そうだ、そうだの共感とか、何らかの意見が必要です。単なる情報なら受け入れることができるでしょうが、読書はそうはいきません。読書するとはその個体がする行為なので、自分の意見がないと成立しないのです。
 このような考えに立脚する〈読書アドバイザー〉は次のように考えることができます。読書するひとに直接こちらから情報を提示することではなく、読む人の目的に向かってアドバイスすることなのです。なぜなら、読みは現実からの意味を引き出してくることに同じで、またそれをするのは本人だということなのです。先々回の冒頭で「読書相談室」のQandAを引用したおりに例Aは〈読書アドバイザー〉に該当しないとしたのはこれがアドバイスではなしに対話になっているからです。それも直接の回答であって、質問者の目的に向かってのアドバイスではないからです。また同じ理由でひとつの質問に対して答えを見つけ出す「レファレンス」ということもしません。調査業(サーチャー)のようなこともしません。また秘書のようなことをしようというのでもないのです。またまた、本を読んで(声にだして)聴かせるような読みきかせでもないのです。(幼児の場合は除く、これは別の問題)端的に言ってしまえば、コンサルティングをすることなのです。つまり〈読書コンサルタント〉のことをさしています。クライアント(依頼を出す人という意味をこめてクライアントと呼んでみます)に対して、その問題に応じて対応し時にはくわしく、時には大まかに対応して、結局はクライアントの問題につきあい、解決にむけてともに努力することなのです。これをおいて他にはありません。コンサルティングですから、さまざまなバリエーションをとるだろうし、また不幸にしてクライアントとの不仲もあり得ます。高額の対価もあれば低額の対価もあり、そして破綻もありうるのです。しかしながら問題解決にむけて努力しうまくいけば、大きな成果となって帰ってくるのです。
 先ほどの例Aのような質問からもっと本格的な相談つまり起業の相談からプロジェクトの立ち上げ、論文作成、など多方面なものが想定されます。
 注意しておくべきは〈読書アドバイザー〉が読むのではなく、クライアント本人が読むのだということです。読むひとはあくまで本人であって、その人の判断のためにアドバイアスするというものなのです。
 例Aの場合は、すかさず「仕事で疲れているなら、本など読まずに、直ちに眠った方がいいですよ。」と私なら言ってしまいそうです。ですが、これでは話になりませんので、やはり親身になってクライアントの読書傾向を探るでしょう。
 ともかく、私たちの示す概念が、ちょとした質問に応じるような「レファレンス」するものではないということはわかっていただけると思います。
 先のJPICの読書アドバイザー養成講座にみたカリキュラムの①から③は次のように言いかえることができるでしょう。
① 「生涯学習と読書」は、個人的な欲求に基づいた読書とその知的探求
②「読書活動の種類と技法」は、文献検索(インターネットを含む)の基礎と、情報についての概念
③「出版文化産業論」は、自らインプットする知識を自らのものとしてアウトプットするシステムの開発
 以上のように書きかえることができるでしょう。これらの書きかえられた項目への講座を持てば、〈読書アドバイザー〉への道がひらかれていくでしょう。
 また「自らの教養を高めるとともに終了後は、家庭の子育ての中で、また地域サークル活動や、企業の社員教育として「読書の効用を広げていただきたいと考えております。」は「他人のために助成することではなく、あくまで自分のこととしてとりくみ対等の関係としてのコンサルティングであり、クライアントの困難はアドバイザーの困難であるという意識、そして自らも研究者、表現者、作者として立ち向かう存在であるということ」と書きかえることができるでしょう。
 くりかえしになりますが、もっと具体的に述べてみましょう。〈読書アドバイザー〉は地域や学校でも本を読んで聴かせるようなことはしません。良書を選択する依頼を受けてても直接には示しません。実際に選択するのは、その依頼をした本人であり、その組織、団体であるということです。質問に対する回答といういわゆる「レファレンス」はしません。知りたいことへの資料は提出することはあるが、また検索してみることはあるが、それを直接読んで結論をみちびき出すのは本人です。〈読書アドバイザー〉は自分の能力をよく知っていて、自分の能力にあまるものは他の〈読書アドバイザー〉にゆだねるでしょう。その意味では、〈読書アドバイザー〉はネットワークを持っています。このネットワークこそが、相互に〈読書アドバイザー〉とクライアントが、互いに入れかわり可能な情況を生み出すことができるのです。〈読書アドバイザー〉はアドバイザー、コンサルタントでありながら、シチュエーションが変わればクライアントになり得ると言うことで、同一人物でも立場の入れ替わることは原理的には可能なことなのです。