注解版 読書アドバイザーつは何か2

今週二回は前回からのテキストの2と3になる。
注釈を入れているが、考え方が結構変わってきているのでつらいものがある。
とりあえずは、やれるところまではやってみよう。

読書アドバイザーとは何か2問題の所在Ⅱ

 先回は『日本読書株式会社』にある読書相談の質問とその回答について検討してみました。それでは直接「読書アドバイザー」の言葉を使用した例があるのでしょうか。たとえば「JPIC財団法人出版文化産業振興財団」によるホームページで次のように案内しています。

当財団では、読書をとおした国民の生涯学習推進のため、平成5年3月より『JPIC読書アドバイザー養成講座』をスタートさせております。
同講座は、通信教育とスクリーングの組み合わせで、「生涯学習と読書」「読書活動の種類と技法」「出版文化産業論」等について、レポート作成や実習・グループディスカッションを交えたカリキュラムで構成しています。
受講生の方々には、自己の教養を高めるとともに、修了後は、家庭の子育ての中で、また地域サークル活動や企業の社員教育として「読書の効用」を広めていただきたいと考えております。(www.jpic.or.jp/advice)

ここでは直接読書アドバイザーについて語っているわけではないのですが、その養成講座ということからおおむね推測できるとおもいます。そこには
生涯学習と読書
② 読書活動の種類と技法
③ 出版文化産業論
より成り立っているとかんがえられます。
この講座内容を逆に考えるならこの①〜③を目指す人が読書アドバイザーといえるのでしょう。
またここには「読書アドバイザー」というのが読書の振興をはかって本の販売実績を上げようという意図が見えますが、それは出版産業の振興財団なので当然のこととなのですが、それはそれとして①の読書と生涯学習と関係はあるのか、そう問うてみる事は無駄ではありません。いや読書に効用なんてことがそもそもあるのかを疑ってみる必要があると思うのです。読書にどのような効用があるというのでしょう。教養って読書によって高まる?読書によって教養が高まるという保証はどこにもないのではないでしょうか。
 なぜなら本をたくさん読んだからといって人格が高潔になるわけでもないしまた優れた(何をもって優れているというのかわかりません)人になるわけでもありません。文字が読めなくても立派な人は昔から多くいました。文字が読めなければ正しい判断ができないのだろうか。これもおかしい。文字が読めたとしても読書習慣のないひとは たくさんいますし、本なんてめったに読まないという人をよく知っています。ですが決して人間性に劣っているとか、高潔でないとかいうことはできません。読書するしないは人間性となんら関係がないというべきなのだと思います。
本当の事を言うと、私は読書が嫌いです。嫌いだという、と読書アドバイザーを議論していて語弊があるので「余り好きではない」と言い換えておきます。読まずにすむなら読まないにこした事はない。しかしそれでも読まずにいられない苦しさに悩まされてきました。そして今では家人が棄てろ捨てろと言うのに耳も貸さず多量の本を所有しています。いつの日か一気に捨ててしまえばさぞかしすっきりするだろうと思うのですが、踏み切れないでいます。そんなアンビバレントな人間ですが、自分がよく本を読むからといって、読まない人が劣っているとか、かわいそうだとか思うことができません。むしろうらやましい気さへするのです。確信を持って言うことができるのは読書することと、人間性とは何の関係もないのです。読書しようがしまいがなんら問題はない。「読書」ご立派主義は幻想だと考えます。
 永江朗はかつて次のように述べました。

  わたしが本を読むのはそれが面白いからであって、「読書はいいもの」だとか「本は  素晴らしい」と思って毎日読んでいるわけではない。もちろん「面白い」の中身にはいろいろあるけれども、読書という行為そのものが立派だと思っているわけではない。読書より面白いものがあれば、躊躇なくそちらを選ぶだろう。ほんを読めばいいというものではない。本をたくさん読んでいる人がいつも正しい判断をするとは限らないし、ほんを読まない人が間違ってばかりいるわけではない。(「誰が本を読まなくなったのか?」『別冊本とコンピュータ5読書は変わったか?』所収)

 このように活写して見せたのですがこの文献の趣旨は本を読まなくなった、読まなくなったというのが実はそうではなく、「読書ばなれ」など進んでいないということ、むしろ本はますます読まれるようになってきていることを分析して見せました。ただ読む人と読まないひとの二極分化が発生してきたのだといいます。
 また「読書ばなれ」を嘆く論調にたいしても一言述べています。

  私が胡散臭いと感じるのは、そこのところだ。タバコ業者が、喫煙者の減少を嘆くのと出版関係者が「読書ばなれ」を憂慮するのと、本質的に違いはどこにあるのだろうか。(同右)

 このように書き「書籍・雑誌の流通」の問題と「読書の問題」を混同してはいけないと主張します。
 実は、これから議論する読書アドバイザーは、このような読書好きを対象にしているのではありません。むしろ読書など嫌いで、また読書習慣のない人が対象になっています。忙しくて読書する暇のない人々も含まれるでしょう。読書の好きな人はほっておいても勝手に本を探し出してきて読んでいますし、せいぜい読書談義で、情報の発信を促せればいいだけのことなのです。
 これに比べて読書習慣のない人々は結構います。「私は小説など読んだことはない」と誇らしげに自慢する人は案外多いものです。それは小説のような絵空事より、現実の方がずっと面白いということを語っているのだと思われますが、じつはこれは同じ事なのだと考える人はすくないようです。小説を読むことも、実社会で先を読むことも同じ事なのです。読む小説を単にエンタテイメントの娯楽と読んでしまえば(それはそれでいいのですが)それは面白くないでしょう。しかし、優れた小説はそうはさせません。じつに現実を突きつけてくるのです。実社会で判断に困ったときと同じリアリティーをもって迫ってくるものなのです。
 これまで述べてきたように、この読書習慣がないということが、人生の幸・不幸にも、優劣にも関係しません。全くの同じ価値なのは申すまでもないことでしょう。
 それでは私たちの示す〈読書アドバイザー〉(〈〉をつけるのはこれまでと違う概念であることをあらわすため)とはいったいどのようなものなのでしょうか。
 そのためには、読書ということ、読むということが定義されていなければなりません。もちろん、世の中にはたくさんの読書論があり、読者論もあるもですが、いずれを選択するかということではなく、私たちの考える読書なり読みということを述べてみたいと思います。