電子書籍について考える

電子書籍について考える

 鳴り物入りでiPadが発売されたり、キンドル日本語版が今秋発売され、ソニーもリベンジで参戦するらしい。そこで佐々木俊尚さん『電子書籍の衝撃』を読みながら考えた。
 読了してあれこれ考えてみて、やはり私にはあまり関係がないという結論に達した。
 デバイスそのものについては、書き手である私や読み手である僕にとってあまり重要ではないということだ。私や僕にとっては驚くような変化ではない。むしろ現在となにも本質的な変化ないと思える。本を購入して読もうという時に、ハードカバー本を買うか文庫本を買うかといった違いとおなじことだから、文庫本より電子本が安価なら電子本を買うといった違いぐらいだろうか。また逆にあまりにその作品なり著者にこだわっていると言うなら、ハードカバー本を買うだろう。それはテキストとしての本ではなくマイフェバリット(宝物)としての購入になる。いや両方買うだろう。また電子本でも欲しい。(古井由吉さんの本のように)
 おそらく電子書籍の出現が、第二の黒船にたとえられるのは、出版業界でのことであって読む、書くという私たち自身にとっては何の変化もないのではないかと思える。もちろん基本的にはという意味でなのだが。
 それでも小さなディテールでは変化があって、場所をとってじゃまになる印刷本に困っていることは電子本になればいくらか解消されるだろうということ。また、セルフパブリッシングが出来るかもしれないというのもおもしろいだろう。
 そういったディテールはともかくとしても、まだ現前とはしていないが、やはり長期的に問題にしたいのは、デジタル思考という流れであって、これは何も、電子本がデジタルで印刷本がアナログだというような単純なことではなくて、もっと大きく進行しているデジタル的な思考の流れによって、人間の頭もデジタル化した身体へと変化していくことの問題だろうと思う。これはなにも電子書籍の問題と言うわけではないのだが、よりスピードは速まるだろう。
 卑近な例では、すでに文体が変化し始めている。言語は世につれて動くものだから、それはそれでいいのだが、言語化するときの差異がのっぺらぼうになってきてはしまいか、という問題なのだ。
 佐々木本ではケータイ小説を取り上げて議論しているが、村上春樹谷川流、美嘉の文章を比較している。ケータイ小説といっても、れっきとした日本語なのだが、シナリオのようにその場の説明と雰囲気が分からなければ理解できないものとなっている。すでに了解された二人なら理解はたやすいが、了解されていなければ何のことだかわからないということだろう。そこには広がりがないとか、文章が稚拙だということがいいたいわけではなくて、言語化することがこのように狭隘なところに落としこめられていくというのが問題なのだ。細かい感情のディテールを端折っているということが問題なのだ。このことは典型的にはコミックの世界に現れていて、コマとコマの間にもつながりがあるのにそれを落として表現していくデジタル思考の流れということだろうか。