インターネット時代の本の展開について

インターネット時代の本の展開について



ここで本といっているのは印刷本のことで
いわゆるデジタルベースのe―ブックではない
そこでは読み方が違うということなのだ
いくら読みやすくなったとはいえ
モニター上で長いシーケンシャスな文章を読むというのは
至難のわざである

早く読むためには、それなりの文体を必要とするからだ
印刷本のようなわけにはいかない
しかし、相反するのは現在が語るように書くという
口語をもとめているということなのだ
短く意をつたえるなら
文語が早いに決まっている

それをあえて口語にするというのは、微妙な意味を
必要としているからだろう
ただし、メールのようにお互いの了解の範囲での更新スタイルでは伝わらない
いかに伝達よく、かつ自己表出を狙うかが課題となる

このようにデジタル上での作業で印刷本の将来を語るということが
妥当なのか、どうかわからない
が、それでもということなら、挑戦してみよう

現物としての本(印刷本)は、そこに在るという
実在性だけでなく
現実に取り出された、パフォーマンスであるから
形によって同じテキストも変化する
最良の形というものがテキストとして統一されるかは
定かではない
ただ、本の形を変えるとテキストが変貌することは
間違いがない

本の成立に向かって、江戸時代の和本の世界を参考に考えてみよう

(1)私家版が圧倒的に多かったということ
橋口侯之介『続和本入門』を読むと
江戸時代の各時代を通じて、いわゆる私家本が
多数をしめていたことを教えている
公刊されたものよりも、素人による出版で、その意味は闇屋のルート
だったという事だ
公刊物は幕府も統制などの管理をおこなったが
私家版についてはお目こぼしがあった
流通するのが数すくないものについては、おかまいなしだったのだ

今日、地方の出版物もISBNを取得すれば
全国流通も可能である
ただし、部数が少ないのに全国流通を目指すのは無謀である
と著者は教える
別のルートの流通ルートをめざさなければならないのに

(3)本屋なかまで売るということ
同じく同本によると
本は何度も版木(版権のように版木ごと売り買いされた)
を売り買いして刷られた
過去の版木を新しく刷って売ることが可能だった
(一度売れた本はまた売れる可能性がたかいので何度も版元を変えて刷られた)
現在で言えば
著作権の切れた作家本を各社各様に刊行するようなものだ
漱石全集、岩波、ちくま、etc
文庫本として、etc
二冊本「ザ・漱石」のように大活字でニ段組
新仮名遣い
ルビ付き
様々に変化することが可能だ

人は読みに関しても身体的歴史性に拘束されているので
読めるものなら何でもいいというわけではない
読みなれた媒体にしてこそ、はじめて読める
今日的に言えば
大部なものは、文庫本の形にしてもらったほうが読みやすい
というぐあいに
大きな全集本では読むには腕の力からも視力からも
つらい
印刷本のもつパフォーマンスは自分に適したメデイアに
変更して読めるときに大きな力を発揮する

(3)写本という重要性

和本の半分は写本であったという
版本とおなじように売られていた
写本には書き込みがあって
それも楷書で書くというルールがあった
様々な校註も入れて、読みつがれていった
ということが重要なのだ
今日では書き込み本は商品ではなく
個人のノートと解されるので古本売価は安い
しかし、写本の意義はたくさんの人の手にわたりながら読んでいって
次々と売り買いされていくというネットサーフィンがいい
(逆ネットサーフィンなのだが)
現在ではブログへの書き込みになるのだらうが
この世に一冊の校註の入ったテキストが自分に回ってくるというのは
捨てられない魅力がある

もうひとつは
「近代以降も広義の「写本」はたくさんつくられてきた。ノート、日
記、書簡、そしてガリ版・・・。しかし図書館、文庫はよほど著名な
作家でもないかぎり、一般のこうしたノートまでは収集しない。だか
ら「写本」は埋もれ、破棄されたということなのである」

ここではノート、日記まで写本あつかいされている
しかし、これはひとつのエクリチュールであって
写本ではない
いや、草稿なのだ
他人に見せる事を前提にしたエクリチュールであると
(自分だけのノート、他人に見せるためのノートと概念が混在している)

「二十世紀後半になると、個人による自費出版がさかんになり、ワー
プロ、パソコンの普及で、見かけは出版社の出す書籍と区別できない
本もできるようになった。(中略)以前なら本にならないものも、現代
では容易につくることができるのだ。これは印刷本の形をした「写本」
ではないだろうか」

写本ではなくエクリチュールである
手を使って本を複製するというのが写本ではなかったのではないか
単に写し取るだけの本は、「版本写し」といって価値をみとめなかった
しかしまた写本の概念は、本屋が出版する過程で今日の「原稿」に相当
する用語として写本を用いているので
この意味では作家の原稿もりっぱな写本であるから
概念の幅はひろい

また原稿料も写本料と言ったなどの例があるという
ともかく「手書きの紙を綴った全体を指す用語」なのである

「私家版のように周縁にいくにしたがって変わった本があってにぎ
やかであったように、写本はもっと千差万別、個性豊な世界である」

一本だけで二本とないものとしての写本
礼法、占い、有職故実、武芸、料理、音楽、演劇、相撲、建築、などなど
エクリチュールの世界はひろがっている
獄中の自白調書のようなものは出てこないのか?
ミシェル・フーコーが「汚辱に塗られた人々の生」であつかったような
写本は出てこないのかと想像してみる

写本の影響力の大きかった例に新井白石をあげている
存命中の出版物は『停雲集』と『白石詩集』ぐらいのものだった
失脚してから『折たく柴の記』『読史余論』などの著作にはげんだ
それらは写本として流通したという
白石の業績は江戸期をつうじて評価されたが
写本だけでこれだけの広がりと影響力をもっていた
という

(4)だれが読むのか

出版物、私家本、写本はだれが読んでいたのか
今日でも、ブログは誰が読んでいるのか
という事だ
読まれることは現在及び未来に向けられている
最低限、何人の読者あれば、出版として成立するのか
板賃、紙代、仕立て代(製本のこと)
を合算して、部数をきめた
それは現在でも同じだろう
江戸期の本の一冊がほぼ五千円前後だった(現在価に換算して)
けっこう高くつくのだ
部数を分けるものは紙代だが
「千部振舞」といって千部でお祝いしたぐらいだから
それ以下だろう

「採算点」を図表でしめしているが六百五十部ぐらいなので
(今日的に言えば損益分岐点
それ以上売らないともうけにはならない
つまりは最低六百五十人の読者を必要としている

本の展開が可能なのは
インターネットなどのようにデジタル化か
それとも印刷本かの対立ではない
どちらでも同じことだ
本そのものが蓄積してきた知識に
新たに追加していくことだ
「書物は読者が育てる」(六章のタイトル)
は示唆的な言葉だ