ジャン=リュック・ナンシー『私に触れるな』未来社

ジャン=リュック・ナンシー『私に触れるな』未来社



 ジャン=リュック・ナンシーの名前が、他の文献によく引用されるので、読んでみようと思っていた。田舎の書店にあったのがこの一冊だ。
 このキリスト教神学における解釈を新たに試みるナンシーは自己―脱構築をめざす。何て意味深長で奥行きのあることばだろう。「私に触れるな」という一言は多様な解釈を喚起する。リフレインし絶えず回帰してくることば。
 しかしながら、キリスト教と直接関係のない僕たちにとってはどうでもいいと言えば、どうでもいいことで、「復活」であろうが、「二人の人間の愛やその他の感情が交錯する場面」(訳者解題)であろうが、さほど問題ではない。
 フロイトの不可触民たちにふれるそのタブー構造を連想するものとの解釈もベクトルは逆なので、あまり関係ないと考えた。
 単に、できの悪い亭主が探していたら現れて、あらあんたと触れようとすると、その亭主はなにを勘違いしたのか「私に触れるな」とえらそうに言ったという場面をふと想像してしまった。それは、この場面が、衆人環視のなかで多数に向けて発せられたものではなく、「伴侶」にして「もっとも愛された弟子」であるマグダラのマリアに向けて発せられたことばであるからだ。
 つい先日、ニーチェの『キリスト教邪教です!』を読んだばかりなので、そんな下品な想像をしてしまったのかもしれない。大衆の下卑た解釈は常に崇高なものを認めようとしない驕りである。自分たちの日常におとしこめて解釈しようとするものだ。そういった反省をふまえつつ。
 しかしながら、論理をつみあげての真理なのではなく「一瞬にして、一撃で、意味を解説する暇を与えることなく、人々に触れる」という手法は、近代文学に芸術に「信」にかかわっているという。
 例えば先の「二人の人間の愛やその他の感情が交錯する場面」は触れるということが「官能なのか暴力性なのかが判別できぬままその両方の可能性をもった行為ないし感覚である」と言われれば捨てておけない。あきらかに近代文学にかかわっているのだ。
 先の下世話なイメージも一瞬にして起こった一瞬の譬えの意味が理解されなければ、示したことにならない。なぜこのような観念が立ち上がってくるのかということだ。それはとりもなおさず「ノリ・メ・タンゲレ」の一瞬の理解へとつながることだ。
 この危なさは近代文学においてはどうしようもないダメ男であったり、三角関係のもつれであったりとして表現される。それに触れることは、危険を内包している。
 おなじように先のニーチェ「神の腐敗が臭わないか。神は死んだ!」は狂人にされる。不死性を語るなんて、なんという驕り。
それはともかく、自己―脱構築をめざすナンシーはどこに着地するのだろうか。