尾崎真理子『現代日本の小説』ちくまプリマー新書

尾崎真理子『現代日本の小説』ちくまプリマー新書

 面白い読み物を読んだ。ジャナリストが書いた現代小説考とでも言うべきここ二十年くらいの日本の小説状況を駆け足で語って見せてくれた。どのような小説が読まれ、また話題となってきたのかが概観できる。下手な読み物よりもずっとそのドタバタ性が楽しい。「へぇ」とか「ふぅ」とか声をもらしながら読んだ。そうだったんだとも思いながらも読んだ。
 なかでもおもしろいのはパソコンキーボードによる入力が文学を変容させるというテーマである。けれど、このふたつの間に直接的には関係がないのではないか思う。すでに十四五年前に安倍公房はキーボードで入力するか、ペンで書くかではどちらを使っても同じことだと述べていた。つまりは脳の問題なのだと。道具になにを使うかは本来関係のないことなのだ。ただ書くのは、打つのは生身の個体なので、好き嫌いもあれば慣れということもある。ただそれだけのことにすぎない。すぎないといっても、書く人本人にとっては大ごとで、書けないときにはえんぴつにしてみたり、万年筆にいてみたり果ては用紙にまでこだわって広告の裏側を使ってみたりする、おまじないのようなものなのだがこれが大変だ。きわめて〈なれ〉の領域なのだが画家でも書道家でも使い勝手のいい筆は欠かせないので、同じように〈なれ〉ておれば何でもいいということだ。 
 パソコンだ、肉筆だの論争は、そのことを主張する個人の私的事情を、好みを語っているにすぎない。つまりは恣意性であって、私はうどんよ、私はそばよと言っているというわけだ。
 そういう私も右手が勝手に書いてくれるのですよ、と言ってみたりして自分の好みを語っているわけだがさして意味はない。
 というわけで、肉筆派が死に絶えたとしても文学は残るのである。