再度 柴田元幸

梅雨明け十日の暑い日が続いている。比較的時間も期待できるので再開。
先回に引き続き柴田元幸について、考えてみよう。
『バレンタイン』の帯を頼りに試みてみると「本人は、エッセイがいつのまにか小説になってしまったと言っているけれど、そしてそんな流儀は内田百輭吉田健一など、例がないわけではないけれど、ふうむ、これは、日本の小説にはちょいと例がないのではないか、という短編小説がぎっしり!」とある。
エッセイが小説になるのは、上記の二人だけでなく、たくさんいる。たくさんどころか日本近代小説はそればっかりだ。「例がない」というのはどんな小説のことなのか?新書館の編集者に訊いてみなければならないな。
一つの作品がその作家の現実認識の表徴なのだと考えると、この作品もひとつの表徴なのだ。過去へのタイムスリップするのもそれは作家にとって必然であったわけで、過去の母親に出会うという発想もありえるだろう。しかしそれが文学として成り立つためには、そんなことはありえないという現実認識にたった幻想として容認できるので、そのような現実認識にたっていなければ、本当にこの人はなにを考えているのだろうという新たな疑問として現れてくる。
柴田元幸と9人の作家たち』のなかで村上春樹のインタビューで、『神の子どもたちはみな踊る』に関連して物語のバージョンアップということを発言している。そのことに触れての発言はつぎのようだ。
「成り立ちとしては古典的であっても、その風景は現代に生きている人間にしか見えない風景でなくてはならない」
この発言を応用するとこれは明らかに過去に立ち戻っているけれど現代人にしか見えない風景(or過去)なのだということだ。その視点がなければ文学たりえない。