谷沢永一『本はこうして選ぶ買う』東洋経済新報社、2004年

dokusyoin2006-03-26

谷沢永一『本はこうして選ぶ買う』東洋経済新報社、2004年


 この実践的にして体験的な読書論は、いきなり対立する読書論をもつ二冊を選ぶ。つまり梅棹忠夫『知的生産の技術』と渡辺昇一『知的生活の方法』である。梅棹はカードを使って、細切れのテキストを作成していく読書論であり、渡辺は細切れのテキストに何もないとしてテキストと共に暮らす生活こそが読書の本筋であると解く。この遠く隔たった二つの間に本というものを置こうとする。
 そこで導き出す体験的な本選びは、ケインズの私的挿話や、それに対抗したシュウペーターの秘話へと羅列される。本の「まえがき」と「あとがき」が出版社の読者へのサーヴィスとして付加されたものであること。奥付けの上部にある空白に、著者の履歴をのせる習慣も同じくそのひとつであるという。そして話はあちこちにひっかかり日本の学歴社会にも及ぶ。
 そこに登場し脱線していく話には思いつきとしか言いようのない話ばかりだ。選書・文庫・新書・辞書と買う時の体験的注意や、古代史・考古学・正史・文献学なとの分野についての常識を語っていく。その注意はだまされないための老婆心であって、その切り口の衣着せぬ言いようは失われていない。
 しかし、この辛らつは事が自分の古本屋めぐりの履歴になると、その記述には、けっこう誤りがあってこれは編集者が注意していないのかなと思える。たとえば一五〇頁「昭和二五年三月十三日夜の大阪大空襲で・・」は昭和二〇年のまちがいだし、ちなみに十三日ではなく十四日である。(空襲は十三日の二十三時五十七分から十四日の三時二十五分まで続いた。たしかに十三日の夜には違いない、その意味では教授の記憶は正しいが〇時をまわっていた。)
 総じて、なぜかくも雑多なものを盛り込んでいるのかというと、本を選んだり買ったりすることは、そのまま語ることではなく、急がば回れのことわざどおりよりかけ離れた話にふって行く事によってこそ核心をつけるという逆説が成り立っているのだ。