藤谷治『アンダンテ・モッツアレラ・チーズ』

文藝春秋』9月号(2005)をパラパラと見ていったら「本屋探訪」というページに目がとまぅた。いかつい顔のオッサンがこちらを向いて立っている。書店紹介のページだが、この店主が藤谷治だと知って、あの「モッツァレラチーズ」だと思い出した。
たしか書評をおもわず書いたことがあったっけ。どこに行ったかとハードディスクの中を探しまわっったら、出てきた。これは私の古くからの友人の個人誌に投稿したはずだった。(これは付録で巻末に掲載)
あのころあまりにたくさん書いていたので、原稿として出したのかどうか忘れていた。
ところで、この藤谷治が作家兼書店主だとはついぞ知らなくて、また関西に住んでいると「下北沢」「下北沢」といわれてもそこがどのような所なのか、そしてそんなに有名なのかも分からない。例えば大阪でいえばどこらあたりになるのか、教えてくれる人があったら教えてほしい。
ともかく、店主、元書店員が自分で書店を開いたらこんな風にしたいと考えていた事を実践している人で、ぶあいそうな書店員はやめて積極的に話かける、「自主制作の持ち込みを断らない」「毎月第一日曜日に句会、第二日曜日は『文学の教室』、第三日曜日には『詩の教室』」を開いているらしい。おそらく一見さんは少ないだろうから、なじみの客しか来ないだろう。
はじめは、誰もお客が来なかったので、店を書棚で区切って、書斎を作り小説を書いていたという。その小説が『アンダンテ、モッツァレラ・チーズ』であったらしい。この不思議なテイストをもつ小説は軽いタッチであるけれども、ほかにはない味を持っている。ただし、日本全国で東京以外は出版においては、辺境の地で第二弾、第三弾と出版されているのを知らなかった。(PS.あとで探してみるとたしかに大阪の書店にもありました。失礼。)
この作家兼店主の発想は我々と大いに近いものを感じさせる。先を越されているなぁ、という嫉妬と共に我々も(新刊本ではなく古本でスタートするが)同じようにほんの販売だけにこだわるつもりはない。むしろ本を交換する、または触媒とする場にしていきたいと考えている。簡単にコミュニケーションの場といってしまうと陳腐で、何か下心ありそうに見えてしまうが、そんな事はない。建て前はあくまでビジネスで金儲けという資本主義の論理に立脚していきたい。
しかし、この藤谷氏と我々の相違点があるとするならば、それは本にたいする姿勢かもしれない。「本が大好きじゃだめなんです。大大大大大好きぐらいじゃないと。給料が出なくとも、外出できなくとも、ぜんぶ我慢できるぐらいに」と藤谷氏は述べていて、本がすきで好きでたまらないと書店はできないといっている。我々は、いや私は本は好きであると共に嫌いだ。こちらはあちこちで何度も書いてきたので繰り返さないが、このアンビバレントな気持ちは嘘ではないので、やはり躊躇する。
本は何物にも変えがたい存在であると共に仇でもある。本当にそうなんだから仕方がない。楽しそうに本の事をかたる人に出会うとついつい茶化してしまうのはその癖によっている。
この姿勢はある意味で「性的対象」に対する姿勢とにているかもしれない。「嫌い、嫌いも好きのうち」とあるように、複合観念なのだろう。性的対象は人だけれどもこれがモノだとすると貨幣(おカネ)にもにているかもしれない。ほしくてほしくてたまらないものでありながら、或る局面では汚いもの、危険なものに変身してしまうおカネに似ているかもしれない。


付録
藤谷 治;アンダンテ・モッツァレラ・チーズ、小学館、2003

 「アンダンテ・モッツァレラ・チーズ」というのは、最高のバカ話のことだ。大笑いの種だ。「ヒッヒッヒ…」でもなく「ウッフフ…」でもなく「ヘッヘッヘッヘ…」でもない。「ワッハッハッハ…」の哄笑のことだ。
 昔からこの手のドタバタは大好きで、この種の読書の細い系譜をたどるとすれば、私のなかでは北杜夫『どくとるマンボウ航海記』がその起源か?そこから思いつくところでは、筒井康隆三浦俊彦まで大好きで、いつも新刊を探している。ブコウスキーの『パルプ』も良かった。新たにこの藤谷治を加えてもいい。
 主人公らしき溝口健次は、書店の社長が、長年働いてくれて実力もある女性社員にたいしてポロリと「ウチは女を店長にする気はないから」と話したのを聞き捨てならんと憤慨し、女性社員とともに辞職してしまう男だ。女性達は立派に再就職をはたせたのに、男はなかなか決まらずに走り回った。やっと見つけた就職口は、医学関係の文献検索や文献コピーをサービスする会社で、そこで由果と知り合う。由果は十四歳で家を飛び出し、二十歳で日本を飛び出し刺青を入れまくった。そして一生一度の情熱的な恋愛をし、一児をもうけるが捨てられて日本に戻ってきた。身も心もボロボロになったこの三十路の女と健次は同棲生活をはじめる。同じ社内では都合が悪いと、同棲及びコブ付きはひた隠しにしていた。
 そこへ二十一歳の篠原京一、二十九歳の大森浩一郎などがからんでくる。京一の路上ライブにしびれて恋いこがれる富豪のお嬢様キリスト教伝道師千石清見が加わって話しは始まる。千石嬢が乗ってくるメルセデスベンツV230で合同出勤するようになり、その車中でのバカ話が「アンダンテ・モッツァレラ・チーズ」だ。
 由果のモンモンにときめく刺青フリークの営業部長野茂美津夫五十二歳は、何とか二人を引き離そうと、健次にアメリカ出向を画策する。健次は承諾するが、由果はもう外国へはいきたくないという。そして野茂の邪悪な計画が実るかに見えたが思わぬ方向に展開する。
 このようなドタバタ調をスラップスティクというのだろうが、野茂営業部長は明らかに戯画化されているが、他はそうでもない。戯画化された人間観察というよりも、著者の意図は、人生で苦しいとき、辛い時はバカ話をするのが一番、そうだ、いちばんくだらない話がいいとする姿勢だろう。健次の口をとおして著者はいう「この馬鹿らしさの前では、人生のたいていの苦難はかなわない。」と言ってのける。それは語り手という作者が「ぼくたち」ということばを使って前面にでてくるという意識ともつながっている。「ぼくたち」という誰とも特定できない人物の口を借りて登場してくる例は、こんなにロコツな語り口だ。「…ぼくたちは予想だにしなかったのであった…とテレビならここでコマーシャルというか『また来週!』というところだ。」と一言多い。
 しかしそれでも現在的な意識として評価出来る。ともかくハッピーになれる一冊だった。